翅をもつ意味

ゆいつ

掌編「翅をもつ意味」

 誇りを胸に抱いていた。

 僕には、他の労働者とは違って、細くとも美しい翅が生えている。同じものを得ている仲間は多くない。光を透かす宝石を背負うのは選ばれし者の特権だ。そして、位の高い僕が、誰よりも輝く女王様に憧れるのは当然のことだった。


 「ねぇ、女王様。僕も綺麗な城を築けるかな。」


 僕は声を震わせながら問いかけた。

 土の優しい香りに包まれた城の最奥で、女王様は光沢の帯びた身体をわずかに動かし、深い色をした瞳を僕に向ける。支配者であり――母である。彼女の所作はどこを切り取っても威厳と慈愛に満ちていた。


 「貴方の紡ぐ未来を楽しみにしているわ。」

 「任せて。貴女みたいに立派になるんだ。」


 母は僕のことを深く愛している。

 労働者にも兵士にも、決して話すことのない未来のことを、翅をもつ僕にだけ託してくれる。僕が格別の存在であることは、疑う余地もない。


***


 幼馴染の女の子に翅が生えたことに気づいた。

 雨が上がったばかりで、妙に蒸し暑い日、彼女は綺麗な翅を見せてくれた。最初は他の仲間と何も変わらず、空も飛べなかったはずだ。それなのに、今や屈強な身体に、女王様と見紛うほどの存在感を乗せている。城の奥で、手厚い世話を受けていたからだろうか。誰よりも愛されていたからだろうか。久々に会った彼女は、最初から別世界の住人であったかのように、酷く輝いて見えた。


 「そろそろ、出発しよう。」


 彼女は手を差し出しながら囁いた。

 思わず握り返してしまったけれど、僕には言葉の意味が上手く掴めない。そうして、彼女の深い瞳に映る自分が随分と貧相な見た目をしていることにも、今頃になって気がついてしまった。


 「ねえ、僕は……」


 選ばれていたのは僕だ。

 最初から翅が生えていたのは僕の方なのに、どうして、彼女はここまで頼もしいのだろう。


 「あ……」


 ――繋いだ手に温もりが伝わる。

 僕はこれを知っている。僕の敬慕する女王様とは少し違うけれど、間違いなく同種の、命を紡ぐ熱だ。新しい世界を築く決意だ。


 「どうしたの。二人で行くんでしょ、未来へ。」


 僕は彼女に手を引かれるまま空を飛んだ。

 彼女は、城の外を指して未来と言った。果てしなく青い空に、身を揺らしてくる微風に、照りつける太陽に、僕らの未来があるらしい。


***


 託されたのは、僕だけではなかったのだろう。

 丈夫な彼女が風を代わりに受けてくれるから、僕はすぐに追従して、楽な姿勢で翔けるだけ。情けない姿を城の誰にも見られていなくてよかった。しかし、行き先は今もわからないままだ。


 「私ね、強いだけじゃなくて、皆の安心を守れる女王になりたい。」


 彼女は前向きに夢を語っていた。

 やはり、彼女は女王として生きるつもりで、既に明確なビジョンまで見えている。僕は不思議と、彼女の夢は近いうちに叶う気がした。彼女の後ろを飛行する僕の心が穏やかであることが答えだ。長く危険な旅路を、僕は彼女に守られながら、安全に進み続けていた。


 「じゃあ、僕は――」


 僕はどうだろうか。

 女王にはなれるだろうか。身体を見るだけで不安は尽きない。彼女と僕との間に生じていた差は大きいとわかっている。――それでも、僕は生まれてすぐに憧れたのだ。煌びやかな夢を手放すことはできない。気持ちだけなら、彼女にも負けない自信がある。


 「僕は……」

 「見つかるといいね、キミの女王様。」


 一瞬、時間が止まったかと思えた。

 しかし、動いていないのは僕の小さな身体だけだった。


 「僕の女王様?」

 「結ばれて終えるんでしょ。キミの命って。」


 彼女の視線と言葉が痛い。

 それでいて、悪意が一つも含まれていないことが苦しい。


 「……え?」

 「キミは男の子だから。」


 ああ、僕は今まで勘違いしていたようだ。

 選ばれていたのは最初から彼女の方で、僕には何もない。僕に未来はない。城を築く力もない。仲間を守れる心もない。それどころか、労働者のように勤勉でなければ、兵士のように凶暴でもない。僕はただの貧相な蟻だった。


 ――貴方の紡ぐ未来を楽しみにしているわ。


 騙された。僕は女王様に騙された。

 伴侶に出会えば死ぬ虫が、出会わなくても弱るだけの虫が、どうして、未来を紡ぐことができるのだろう。僕はずっと良いように乗せられて、麗しい未来予想図だけを描いて、存在しない幸福を馬鹿みたいに追い求めていたらしい。


***


 頭が真っ白になった。

 目前の様子が急にわからなくなった。――否、本当は今も彼女が女王の翅を揺らしていることがわかる。僕に叶えられない夢が、彼女の中にあることを理解できてしまうからこそ、前を見たくない。輝きに瞳を灼かれてしまいそうだ。そうなれば、僕はもう苦しくて堪らなくなる。


 要は現実逃避をしているだけだ。

 不都合から目を逸らすように、僕は彼女とは別の方向へと散った。何もないところで密やかに消えたい。夢が叶わないなら、せめて、温かいところで眠りたい。


 しかし、里帰りはできない。

 僕は彼らに見送られたばかりだ。旅に出た労働者が必ず食事を持ち帰ってくるように、僕らにも、何か遂げなければならない目的があるはずだ。それについて、僕は何も知らないけれど、手ぶらで帰還する僕を歓迎してくれる仲間が一人もいないことくらいはわかる。僕は孤独に死に場所を見つける他にない。


 世界は広いのに、僕は思うように動けない。

 一人で飛ぶと、風はいつもより冷たくて、圧力も刃のように肌を削りとる。誇りにしていた翅すらも、今となっては重たいだけで、空気の湿った日には身体にぴたりと張りつくから不快だ。僕のもつものは枯葉でしかない。飛翔と墜落を繰り返しながら、心まで摩耗する。僕は守られていなければ何もできない。


***


 自分の翅音が遠くなる。

 冷たい風が骨格の奥に染み込むようで、天と地の方向すらも覚束ない。ただ、惰性で翅を動かし続けるうち、足先が何か柔らかなものに触れた。


 甘い香りが鼻をくすぐる。

 母と同じだ。あの子と同じだ。けれども、少し控えめで、今にも消え入りそうな――女王の声がする。


 「……君は?」


 綺麗な翅をもつ女の子が草原で休んでいた。

 確かな鼓動を感じる。身体に傷の一つもついていない。彼女は生きている。見た限りでは丈夫で、問題はなさそうだが、彼女はその場から動こうとしない。


 「見ないで。……私、女王になれない。」


 彼女は蹲ったまま目を伏せた。

 僕は彼女が泣いているのがわかった。


 「どうして?」

 「……私は、弱いから。群れでも、才能がなくて心配だって。だからね、私、仲間を守ることなんて……とても……」


 途切れ途切れの言葉に耳を傾けていた。

 彼女の言う通り、大きさこそ申し分ないが、女王の翅にしては陰りが見える。これでは、自信を無くしても仕方がないのかもしれない。


 「そっか。」


 僕はふらつきながらも彼女の傍に身を寄せた。

 それから、痩せ細った腕で、半透明の翅を優しく撫でる。


 「僕も同じだよ。……未来なんてないから。」


 もう、僕も長くはない。

 命の灯火が消えかけている中で、久々に触れる同胞の身体は、何よりも温かかった。


 「でもね、君は女王様だ。」

 「え……?」

 「君に守られる子は、きっと、幸せだから。」


 僕は選ばれし者ではなかった。

 誰からも認められず、何者にもなれず、それでも、生まれてしまった命。不完全なまま空に取り残された僕は、最期に君に出会った。


 君でなくとも良かったのかもしれない。

 けれど、僕は君に出会った。


 孤独よりもずっといい。

 産まれたての頃と同じように満ち足りた気持ちに包まれる。愛する人に抱かれているときと同じ幸福が、君の熱には含まれている。


 「……アナタの翅音も、ちゃんと聴こえる。」

 「僕の?」

 「うん。私、アナタの声を聴いてる。」


 涙が溢れそうになった。

 貧相な身体しかない。城を持つこともできない。それでも、彼女と手を繋いだ今になって、僕の命は無駄じゃないと思えた。


 「ねぇ。」

 「なぁに。」


 僕は彼女の翅に身体を預ける。

 鼓動は重なり合い、世界でたったひとつの音になった。


 「僕、ほんの少しだけど、夢が叶ったかも。」

 「……私もよ。」


 瞼を閉じれば、遠い日の母の声が蘇る。

 ――貴方の紡ぐ未来を楽しみにしているわ。


 ああ、そうか。

 未来とは城を築くことではなかった。


 ただ、誰かと出会い、寄り添い、何にも替えられない一瞬を残すこと。愛する人に心を託すこと。そうして、今までの生に初めて意味を見出すこと。

 それも、未来を紡ぐことと呼んでもいいだろうか。


***


 後に築かれる君の世界に、僕の気配が遺っていますように。

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