沼のささやき
をはち
沼のささやき
幼少の頃、僕にとっての「仕事」はザリガニ釣りだった。
もちろん、誰もが想像するような「仕事」ではない。
金銭など得られない。
ただ、糸の先にスルメを結び、沼の暗い水面にそっと垂らす。
じっと息を潜め、ザリガニがその赤いハサミでスルメを掴む瞬間を待つ。
それが僕の「仕事」だった。
だが、釣り上げたすべてのザリガニを持ち帰るわけではない。
選ぶのは大きく、力強い個体だけだ。
子供の世界では、ザリガニの大きさがすべてだった。
巨大なザリガニを手にすれば、それはまるで戦士の勲章のように輝いた。
誰もが自分の「秘密の穴場」を持っていた。
当然、僕にもあった。
その場所は、沼の上に建つ古い家だった。
朽ちかけた木造の家屋は、まるで水面に浮かぶ亡魂の住処のようだった。
沼は一面、緑の浮草に覆われ、風が吹くたびに生き物のようにうごめいた。
そこには不気味な静寂が漂い、時折、名状しがたい気配が水面を渡る。
特に目を引くのは、沼の中央に沈む、プラスチック製の横断歩道の人形だった。
等身大の男児の姿で、右手を直立させ、こっちを見つめている。
強風で飛ばされたのか、誰かの悪戯か。
理由はわからないが、その人形は沼の浮草に絡まり、右手を水面から突き出したまま、じっとこちらを見ていた。
その視線は、まるで助けを求めるかのようだった。
蚊が異様なほど多く、刺された肌は赤く腫れ上がった。
そんな場所に足を踏み入れるには、並々ならぬ覚悟が必要だ。
だから、そこに通うのは僕一人だけ。
今思えば、あの沼には何かがあった。
時折、家の裏手から「ぽちゃ、ぽちゃ」と水面を叩く音が響いた。
何かが投げ込まれているような、だが見ずにはいられないような、奇妙な音。
普通なら、そんな場所でザリガニを釣ろうなどとは思わないだろう。
だが、僕には関係なかった。
なぜなら、そこで釣れるザリガニは、他のどの場所よりも大きく、力強かったからだ。
その日も、蚊に刺されながら、鼻歌を口ずさみ、いつものように糸を垂らしていた。
すると、突然、横から声がした。
「最近、毎日来てるね。」
振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。
気配も足音もなく、まるで沼の浮草のように静かに現れた彼女。
白いワンピースをまとい、長い黒髪が風に揺れている。
驚きと不審が交錯する中、僕は尋ねた。
「どこで見てたの?」
彼女は無邪気な笑みを浮かべ、こう答えた。
「ここ、アタシの家だもん。」
「この沼の上の家?」と聞き返すと、彼女は首を振って、遠く雑木林の方を指さした。
「ううん、あっち。親戚の家がここで、うちはあそこ。」
「じゃあ、どうやって来たの? 沼を渡って?」
僕の問いに、彼女は不思議そうな顔をした。
だが、それよりも僕の心を揺さぶったのは、彼女の次の言葉だった。
「ここ、白いザリガニとか、青いザリガニとかいるよ。」
白いザリガニ。青いザリガニ。そんな幻のような存在に、僕の胸は高鳴った。
まるで沼の底に隠された秘密を、彼女が知っているかのようだった。
それからというもの、僕は毎日のようにその沼に通った。
そして、毎日のように、彼女は気配もなく僕の隣に腰を下ろした。
彼女はまるで沼の一部のように、そこに溶け込んでいた。
ある日、彼女が小さな頼み事をした。
「あの横断歩道の人形、引き上げられる?」
「なぜ?」と尋ねると、彼女は少し悲しげに言った。
「だって、かわいそうじゃない。こっちを見て、あの水面から出た手が、助けを求めてるみたいで。」
彼女の言葉に、胸の奥で何かが疼いた。
僕の使う釣りの糸は魚釣りの糸で丈夫だった。
予備の糸に石を結び、何度か人形に向かって投げると、運良く手首に絡まった。
僕たちは力を合わせて糸を引き、ついにその人形を水面から引き上げた。
プラスチックの顔は、長い間水に浸かっていたせいか、どこか生気のない白さに染まっていた。
だが、引き上げられた人形は、確かに「助かった」ように見えた。
その一件以来、僕と彼女はさらに親しくなった。
彼女はよく笑い、僕のザリガニ釣りを静かに見守った。
だが、彼女が現れるたびに、どこか不気味な感覚が心の奥に忍び寄った。
彼女の足元はいつも濡れているように見えた。
彼女の笑顔は、どこか沼の水面のように揺らめいている気がした。
ある日、家族にその話をしたとき、事態は一変した。
「それ、幽霊だろ。あの沼で昔、女の子が溺れたって話があるんだ。」
家族の言葉は、僕の心に冷たい影を落とした。
彼女の声が脳裏に蘇る。
「ここ、アタシの家だもん。」
もしや、彼女の「家」とは、この沼そのものではないのか?
ぞっとする想像が頭をよぎった。
沼の底から這い上がり、僕を水中に引きずり込む彼女の姿――
白いワンピースが浮草に絡まり、冷たい手が僕の足首を掴む光景が、悪夢のように脳裏を支配した。
それでも、僕は沼に行った。
直接、彼女に尋ねたかった。
だって、彼女は可愛かったから。
ザリガニを釣りに行っているのか、彼女に会いに行っているのか、自分でもわからなくなっていた。
その日も、彼女はいつも通りに現れた。
そして、僕は勇気を振り絞って聞いた。
「君はここで溺れたことがあるの?」
彼女は一瞬、目を丸くしたが、すぐに笑って答えた。
「よく知ってるね。」
その答えはあまりにも軽く、まるで冗談のようだった。
だが、彼女の次の言葉が僕の心を凍らせた。
「今度、うちに遊びにおいでよ。」
家に誘われた――その瞬間、恐怖が膨らんだ。
彼女の「家」が、沼の底にあるのではないか。
僕を水中に引き込むための誘いなのではないか。
その日を境に、僕は二度とその沼に近づかなかった。
時は流れ、小学三年生のクラス替えの日。
隣に座った女の子が、突然こう話しかけてきた。
「君さ、アタシの家で毎日ザリガニ釣ってたよね?」
横を見れば、そこにはあの少女がいた。
生きて、確かにそこにいた。
彼女は地主の娘だった。あの沼も、沼の上の家も、すべて彼女の家の敷地だったのだ。
僕が「秘密の穴場」と信じていた場所は、彼女にとってはただの庭だった。
他に誰も釣りに来なかったのは、当然といえば当然だ。
その事実に、僕はひどく恥ずかしくなった。
だが、同時に、どこか不思議な縁を感じた。
その縁は、まるで糸のように細く、しかし切れずに続いた。
中学、高校と別々の道を歩んだ後も、彼女はふとした瞬間に現れた。
大学時代、登山中に滑落し、病院に運ばれたとき、彼女は看護学生としてそこにいた。
父が倒れたときも、彼女は担当の看護師だった。
そのとき、彼女が教えてくれた。
「あのとき、一緒に助けた人形が、看護師に進もうと思ったきっかけだったの。助けを求める手を、放っておけなかったから。」
偶然とも、運命とも呼べる小さな縁が、その後も何度も続いた。
そして今、彼女は僕の隣にいる。
看護師として、友人として、そして――何よりも、あの沼で出会った少女として。
あの沼で、僕は白いザリガニも青いザリガニも釣ることはできなかった。
だが、彼女を「釣った」のだ。
心の中で、いつもそう思う。
ただ、時折、ふとよぎる。あの沼の上の家。ぽちゃ、ぽちゃと響く水音。彼女が気配もなく現れた、あの不思議な瞬間。
あれは本当に、ただの偶然だったのだろうか。
それとも、あの人形が僕たちを結びつけたのだろうか。
今でも、彼女の笑顔を見るたび、あの人形の白い顔が脳裏に浮かぶ。
沼の水面に揺れる浮草のように、彼女の存在はどこか不確かで、しかし確かにそこにある。
ぽちゃ、ぽちゃ――
あの音は、今も僕の心の奥で響いている。
「君は、あの沼から来たの?」
沼のささやき をはち @kaginoo8
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