第4話 声の群れ
翌朝。
佐藤はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の隙間から淡い光が差し込み、部屋の埃を浮かび上がらせる。昨日の出来事が夢だったのか現実だったのか、判然としない。だが、胸の奥に残る熱と涙の痕が、それが確かに起こったことを証明していた。
「……ありがとう」
小さく声に出してみる。
その響きは、これまでの自分には不可能だったもののように感じられる。
母に言えなかった言葉、祖母に言えなかった言葉。昨夜、死者の影に向けて口にしたとき、心が少しだけほどけた。
仕事に向かう電車の中で、佐藤は妙な静けさを感じた。
八王子から新宿へ向かう車内はいつものように混雑しているのに、自分だけが透明になったかのようだ。人々の会話も咳払いも、まるで遠くの世界の出来事に思える。
(俺は少し変わったのかもしれない)
そう思いながらも、不安がじわりと広がる。
コールセンターの席に着き、いつものように受話器を取る。
最初の数件は淡々と処理できた。昨日までのように声が空洞に響くこともなく、わずかにだが「相手の存在」を感じ取れる。
だが、昼過ぎ。
その流れは唐突に崩れた。
「……佐藤さん」
受話器から、またしても低い声が響いた。
耳の奥に直接届くような、生々しい響き。
「昨日は……来てくれてありがとう」
佐藤は呼吸を止めた。
受話器を持つ手が震える。
「……あの……あなたは……」
「まだ終わりではありません。私のような声は、他にも……」
ザザ、と雑音が走った。電話が切れる。
胸が苦しくなり、佐藤は席を立った。
トイレの個室に駆け込み、扉を閉める。額に汗が滲み、呼吸が浅くなる。
――まだ終わりではない。
その言葉が、頭にこびりつく。
母の声、祖母の声、そして昨日の死者の声。
すべてが混ざり合い、耳鳴りのように響く。
数日後。
佐藤の日常は崩れ始めた。
夜、布団に横たわると、携帯電話が震える。非通知の着信。恐る恐る出ると、どこかで聞いた声が囁く。
「佐藤さん……」
――中学の同級生。数年前に事故で亡くなったはずの。
別の夜には、インターホンが鳴る。モニターを見ても誰もいない。だが、スピーカーからは聞き覚えのある女性の声がした。
「ひろやす君……」
――それは、母の声に似ていた。
会社では同僚に奇妙な目を向けられる。
突然立ち上がり、声の主を探す自分。受話器を持ったまま、固まる自分。
「佐藤さん、大丈夫ですか?」
「ええ……ちょっと体調が」
笑顔をつくってごまかすが、内側は崩壊寸前だった。
八王子の夜道を歩くと、すれ違う人々の顔が一瞬だけ「かつての知人」に見える。
恋人になりかけた女性の顔、疎遠になった友人の顔。
振り返るともういない。
街灯の下で立ち尽くし、自分の影を見下ろす。
「……俺は、死んでいないのか」
そんな言葉が口をついて出た。
その夜、夢を見た。
広い体育館でリレーをしている。
観客席に母がいる。車いすに座り、手を振っている。
自分は一番でゴールする。
だが、喜びは湧かない。周囲の歓声の中、ただぼんやりと母の姿を見ている。
――ありがとう。
母の口がそう動いた。だが、声は届かない。
夢から覚めた佐藤は、涙に濡れていた。
翌朝、鏡の前に立ったとき、自分の顔が見慣れないものに変わっている気がした。
目の奥が深く沈み、口元には微かな笑みが刻まれている。
「……俺は、誰だ」
呟いた声は、確かに自分のものだった。だが、耳には別の声のようにも響いた。
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