第3話 扉の向こう

玄関の呼び鈴を押したあと、佐藤は息を止めて耳を澄ませた。

 ドアの内側で確かに物音がした。だが、人の気配というより、風が室内を撫でて家具を鳴らしたような曖昧な響きに近かった。


 再び押すと、今度は「ギィ」と扉がわずかに動いた。鍵はかかっていない。

 佐藤は喉を鳴らした。心臓が強く打ち、指先に血が集まるのを感じる。


 ――開けるのか。

 ――いや、帰るべきだ。


 頭の中で二つの声が交錯する。

 しかし足は動かなかった。背中に母と祖母の影が迫る。あのとき「ありがとう」と言えなかった後悔が、再び胸を圧迫する。


 震える手で、扉を押した。


 中は暗く、空気はひどく淀んでいた。

 靴箱の上には古びた写真立てが並び、その中の笑顔が埃に覆われていた。リビングのカーテンは閉じられ、薄暗がりの中で家具の輪郭が不気味に浮かぶ。


 「…誰か、いますか」


 声が震え、返事はない。だが、耳の奥で確かにあの声がした。

 ――佐藤さん。来てくれたんですね。


 幻聴なのか、本当に響いたのか、自分でも区別できない。

 佐藤は奥へ進む。廊下の床が軋むたびに、背筋を冷たいものが走った。


 リビングの中央に、机が置かれている。その上には未開封の郵便物、古びた茶碗、埃をかぶったリモコン。

 椅子に人影が見えた。


 「……っ」


 喉が塞がる。

 そこには、三年前に死亡したはずの男が座っていた。

 ただし、その姿は半ば透けていた。衣服は薄い靄のようで、顔ははっきりしない。それでも声が響いた。


 「佐藤さん、来てくれてありがとう」


 佐藤は足を動かせなかった。

 男は穏やかな声で続ける。

 「死んでしまったはずなのに、私はまだここに縛られている。伝えるべきことを果たせずに」


 佐藤の頭に、母の姿が浮かんだ。

 病院のベッド、車椅子で応援に来た日の影。祖母の最後の寝息。

 すべてが重なり、涙がにじんだ。だが、泣いてはいけない、という声が心を縛る。


 「…なぜ、俺に…」

 声が途切れ途切れになる。

 「俺は…母にも祖母にも…何もできなかった。あなたに…何ができるというんだ」


 男の影はゆっくりと首を振った。

 「あなたはまだ、閉じ込めている。自分の感情を殺したまま」

 「……」

 「だから、私を通して思い出さなければならない。『ありがとう』を」


 その言葉に、佐藤は立ち尽くした。

 頭の奥で、母の笑顔が一瞬だけ鮮やかに蘇る。

 あの日、リレーで勝った自分を見ていた母。視界の端に映った車椅子。周囲の歓声。

 ――なのに、自分は喜べなかった。


 祖母の最期も同じだった。

 ただ見ていただけ。言葉を発せず、立ち尽くしただけ。


 「……ありがとう」


 無意識に、その言葉が漏れた。

 震える声だった。胸の奥が熱くなり、涙が頬を伝った。


 その瞬間、男の影はふっと薄れた。

 「そう…その言葉です。私は、それを待っていた」


 リビングに沈黙が戻る。

 佐藤は涙を拭きもせず、ただその場に立ち尽くした。

 部屋にはもう何もいない。ただ、淀んだ空気と埃、そして彼自身の嗚咽だけが残った。


 夜風がカーテンの隙間から吹き込み、部屋を揺らした。


 佐藤はその音を聞きながら、ようやく椅子に腰を下ろした。

 何も変わらない部屋の中で、自分だけが少し変わったような気がした。

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