第5話 最後の声

雨の降る夜だった。

八王子の駅前から外れた住宅地を歩きながら、佐藤はずっと自分の呼吸音を数えていた。

道を照らす街灯は間隔が広く、暗闇に沈む区画が多い。濡れたアスファルトに靴が吸い付くたび、過去の記憶が脳裏に反射した。


──母の微笑み。

──祖母の手の温もり。

──言えなかった「ありがとう」。


それらは今も彼の胸を締め付けて離さなかった。


数日前、勤務先のコールセンターで「顧客死亡」の通知を受け取った。

事務的に処理すればいいだけのはずだった。だが誠一はなぜか、その顧客の住所が頭から離れなくなった。

行ってはいけない、と理性は囁いた。

だが同時に「行かねばならない」とも感じた。


母や祖母の死に際、最後の声に答えられなかった自分。

その後悔をもう一度なぞるかのように、彼は知らぬ誰かの死の痕跡へ足を運んでいた。


住宅街の一角。

件の住所は、古びた木造アパートの一室だった。

表札はすでに外され、ポストには不在通知が折り曲げられたまま差し込まれている。


誠一は立ち尽くした。

雨粒が髪を濡らし、首筋を伝う。

建物の奥からは何の気配もない。

当然だ。ここにはもう、誰もいないのだから。


それでも耳を澄ますと、不意に声がした。

──「誠一」

それは幻聴だったのか。あるいは雨音と風の戯れが、彼の脳に母の声を呼び起こしたのか。


彼は震える唇で呟いた。

「……ありがとう」


誰に向けてなのか、自分でも分からなかった。

母か、祖母か、あるいは今は亡き見知らぬ顧客か。

ただ、その言葉を発することで、胸の奥に固まっていた氷の塊が、ほんの少し溶けていくような感覚があった。


帰り道、誠一はこれまでの人生を反芻した。

母の死、祖母の死、孤独、感情の喪失。

喜びも悲しみも等しく鈍くなった自分。


だが、今夜。

雨の中で「ありがとう」を呟けたことで、初めてほんの一瞬だけ、心に色が差した。


それが赦しなのか救いなのかは、分からない。

彼は依然として孤独で、未来は見えない。

だが、自らの声が確かに闇に響いたことだけは、事実だった。


部屋に戻り、濡れた服を脱ぎ捨てたあと、誠一は机に座った。

机の上には埃をかぶった古いノート。

震える手でそれを開き、空白のページにペンを走らせた。


──ありがとう。


たった一言。

その文字が紙に刻まれた瞬間、彼の心の中で長らく沈黙していた何かが、かすかに動いた。


窓の外ではまだ雨が降り続いている。

だがその雨音は、もうただの孤独を告げる音ではなかった。

彼にとってそれは、失われた声を再び思い出すための、静かな伴奏のように響いていた。


誠一は深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。

もう一度開けたとき、そこに広がる世界がどんな色をしているのか──それを確かめる勇気だけは、ほんの少しだけ芽生えていた。

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Hollow @hero83

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