第2話 死人に口あり
朝の八王子は、昨日と同じ灰色の光に包まれていた。
佐藤は無意識に腕時計を確認し、また淡々とシャワーを浴びる。水の冷たさが肌を打つが、心までは届かない。洗面所の鏡に映る自分は、昨日と同じようにぼんやりとしていた。顔に皺はないが、目には深い影が落ちている。
朝食も簡単に済ませ、バスに揺られながら駅前の喧騒を眺める。遠くで小学生の笑い声、パン屋の焼き立ての匂い、バスのブレーキ音。すべてが耳には届くのに、心には届かない。
コールセンターに到着すると、席にはいつもの無機質な空気が漂っていた。蛍光灯の光が肌を突き刺し、電話の呼び出し音が脈打つ。
「佐藤さん、対応お願いします」
上司の声が耳に入る。
佐藤は無表情で受話器を取り、声の向こうに現れる「顧客」を迎える。
最初の数件はいつも通りのクレーム処理。
「支払いが遅れている」
「請求額が間違っている」
「返済計画を見直せ」
淡々と謝罪し、手続きを進める。声は滑らかだが、心は空っぽ。
しかし、三件目の着信で異変が起きた。
受話器の向こうの声は、どこか違っていた。静かで、しかし妙に生々しい。
「…佐藤さん、私です」
一瞬、手が止まる。
声は聞き覚えがあった。心の奥底に眠る記憶が揺さぶられる。
しかし、言葉の意味が理解できない。
「…え、どなた様でしょうか」
答えは自動的に出たが、喉は震えていた。
「佐藤さん…私、もう…死んだはずなのに」
受話器の向こうで、低く、ゆっくりとした声が響いた。
佐藤の心臓が一瞬止まる。耳鳴りのように、世界の色が抜け落ちた。
その声は――確かに、数年前に死亡した顧客のものだった。
八王子の朝は、いつもと変わらぬ灰色の光に包まれていた。
佐藤は目を覚ます。布団の中で手を伸ばし、無意識に腕時計を確認する。秒針が静かに刻まれる音が、部屋の静寂に大きく響いた。水道をひねり、シャワーの冷たさに身を震わせるが、心は揺れない。目に映る鏡の自分は、昨夜と同じ影を落とした顔。
朝食は、昨日買った菓子パンとコーヒー。口に運ぶ動作だけが習慣として残っている。テレビやスマートフォンのニュースは、すべて他人の世界の話でしかない。彼の中では、感情のセンサーが麻痺していることを自覚していた。
コールセンターに到着すると、蛍光灯の冷たい光が彼を迎える。
「佐藤さん、対応お願いします」
上司の声が耳に届く。
佐藤は無表情のまま受話器を取り、声の向こうにある「顧客」を迎える。
最初の数件はいつも通り。
料金の確認、返済計画の調整、軽いクレームの対応。声は滑らかだが、心は空洞。応じるだけの作業の繰り返し。
しかし、三件目の着信で世界が揺れた。
「…佐藤さん、私です」
低く、はっきりとした声。聞き覚えがある。胸の奥で、長く眠っていた記憶が揺れる。
「…え、どなた様でしょうか」
声は出たが、喉が震える。
「佐藤さん…私、もう…死んだはずなのに」
その瞬間、頭が真っ白になった。心臓が止まったように感じる。
死亡したはずの顧客――三年前に事故で亡くなった男の声だった。
佐藤は受話器を握りしめ、言葉を探した。
「そ、そんなはずは…」
声が震え、理屈を求める脳と、恐怖に支配される心が衝突する。
「佐藤さん、落ち着いて聞いて…」
向こうの声は静かだが、どこか迫力がある。
「私は…まだ、ここにいる」
佐藤は机に肘をつき、頭を抱えた。
――俺は錯乱しているのか。
いや、現実だ。確かに声が届いている。受話器越しに、明確に。
同僚がチラリとこちらを見た。
佐藤は慌てて微笑みを作る。声を聞かれたら、正気でいられない。
電話は十数分続いた。内容は抽象的で、死者が現世に残る理由を淡々と語る。
「佐藤さん…私には、伝えなければならないことがある」
「どうして…あなたが…」
言葉がつかえ、涙でも出そうになる。出さなかった。感情を殺す訓練は、こんなときにも働いた。
電話を切ったあと、佐藤はしばらく机に突っ伏したまま動けなかった。
頭の中にその声が反響する。現実の景色と混ざり、世界が不安定になった。
やがて、冷静さを取り戻そうと深呼吸する。机の上のパソコンの画面には、次の電話が鳴っている。応答しなければならない。しかし手が震えて受話器を持てない。
やっとの思いで電話に出る。淡々と対応を続けるが、心は遠く離れている。
帰宅後、佐藤は死亡顧客の住所を調べた。
資料フォルダから、古い契約書を取り出す。印刷された文字に、確かに彼の名前と住所が記されている。
――行くしかない。
胸の奥に、母や祖母への後悔が浮かんだ。
あの二度の死を、何もできずに見送った自分。声をかけられなかった自分。
この「死んだはずの人」の前なら、何かができるのではないか。
夜の八王子の街に出る。
駅前のロータリーは明かりがぼんやりと灯り、バス停で待つ人々の影が揺れる。酔客たちの笑い声、居酒屋の暖簾の揺れ。すべて遠くで起こっていることのように感じられる。
坂道を上り、住宅街を歩く。街灯が作る影に、自分の孤独が映し出される。
夜風に当たると、胸の奥がじんわり痛む。過去の断片が次々とよみがえった。母の手、祖母の微笑み、リレーで一番になった日の景色。
その歩みは、自らの意志で踏み出すものではない。
自然と、足が死亡顧客の家へ向かっていた。
途中、公園のブランコに腰を下ろす。錆びた鎖が風で揺れ、かすかな音を立てる。誰もいない。
佐藤は手のひらで顔を覆った。
――自分は本当にここへ行くべきなのか。
恐怖と好奇心、後悔と孤独が入り混じる。
頭の中に、母と祖母が交互に現れた。声にならない声で、「行きなさい」と囁いているような気がした。
佐藤は深呼吸し、立ち上がった。
住宅街にある目的地の家は、静まり返っていた。窓の明かりはなく、門前の花壇には季節外れの花が咲いていた。
玄関に手をかけ、呼び鈴に指を触れる。
震える指で押す。音が家の中に響く。
――返事はない。
もう一度押す。
すると、微かにドアの内側で物音がした。
息を呑み、佐藤は後ずさることもできずに立っている。
この瞬間、過去のすべての孤独、母と祖母への後悔、そして今目の前の死者の声。すべてが一気に胸を締め付ける。
しかし、恐怖の中にわずかに湧く期待もあった。
――ここに行くことで、何かを取り戻せるのではないか。
夜風に吹かれながら、佐藤は自分の足が止まることを許さなかった。
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