空
Hollow
第1話 声なき日々
佐藤が暮らす八王子のアパートは、駅から歩いて十五分ほどの坂道を上った先にあった。二階建ての古びた木造建築で、外壁は日に焼け、雨の跡が黒ずんで流れている。玄関の鉄扉は、開け閉めのたびに鈍い音を響かせ、夜になると廊下の蛍光灯がひとつ切れているせいで、暗がりが彼を出迎える。
部屋の広さは六畳一間。ベッドと安物の机、冷蔵庫、コンビニでもらったレジ袋をまとめて入れてあるプラスチックの箱。必要最低限の家具しか置いていない。カーテンは色あせ、窓の外には隣の建物の壁しか見えない。
冷蔵庫のモーター音が低くうなり、遠くを走る中央線の電車が、規則正しく響きを残して過ぎていく。その反復音は、彼の生活の背景にしみついたBGMのようだった。
佐藤は二十四歳。
日々、コールセンターで働き、無数の声に耳をさらされながら、しかし自分の内側から湧き上がる声はほとんどなくなっていた。
朝六時に目覚める。アラームを止めて、天井を見つめる。そこにあるのは何もない白い壁紙と、小さな染みだけだ。母の声も、祖母の手のぬくもりも、ここにはない。ただ眠りの余韻と、これから出勤までの惰性が横たわっている。
起き上がると、電気ポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れる。トーストは焼かない。食欲はほとんどないが、胃に何か入れておかないと勤務中に気分が悪くなる。パンの袋をちぎり、そのままかじる。淡白で乾いた味が口に広がる。
鏡に映る自分の顔を見ると、そこには表情らしいものがほとんどなかった。無理をすれば笑える。営業スマイル程度ならできる。しかし、心から笑うことができたのは、いつが最後だったのだろう。思い出そうとすると、記憶が霧に覆われるように遠ざかっていく。
彼は八王子駅に向かう。駅前のバスロータリーには朝の人々が忙しく行き交い、学生たちの笑い声、スーツ姿の会社員のため息、売店から漂うコーヒーの匂いが入り混じる。
人の群れの中で、佐藤は常に「透明な存在」であるかのように歩く。誰にも気づかれず、誰とも言葉を交わさず、ただ人波に紛れ込む。
勤務先のコールセンターは、ビルの五階に入っている。大きなフロアに並ぶのは、仕切りの低いデスクがずらりと整列しており、各席にはヘッドセットとモニターが置かれている。入室するとすぐに無数の声が飛び交い、まるで雑多な川の流れに足を踏み入れたように圧倒される。
彼の仕事は、消費者金融の顧客対応だった。支払いが遅れている人への督促、返済スケジュールの調整、時に泣き声や怒鳴り声を浴びることもある。
「お客様、こちらの記録では……」
マニュアル通りの文言を読み上げる。相手の怒りに呑まれぬよう、感情を閉ざす。感情を入れてはいけない。入れてしまえば、自分が壊れてしまう。
午前十時、彼の受けた電話の一つで、中年の男性が声を荒らげた。
「ふざけるなよ! こんなに苦しいのに、どうしてわかってくれないんだ!」
怒号が耳を打つ。だが佐藤は瞼ひとつ動かさず、モニターに目を落としながら答える。
「恐れ入ります。ですが規定の手続きに従いますと……」
声は冷たく均一だった。隣の席で女性オペレーターが小さく舌打ちしたのを耳にしながら、彼は心の奥で思う。——怒りも涙も、遠い。ここではただの音でしかない。
昼休憩。社員食堂の白い蛍光灯の下、彼はカップ麺をすする。他の同僚たちは数人で集まり、テレビ番組や芸能人のゴシップで笑い合っている。
ふと視線をそちらに向けるが、彼の耳にはその笑い声が水の底から響いてくるように聞こえる。自分とは別世界のものだ。彼の口元は動かない。ただ麺を口に運び、熱湯で舌を火傷しそうになりながら飲み込む。
午後も同じだ。電話の向こうの見知らぬ人々は、感情をむき出しにして訴えてくる。だが佐藤は応じない。応じられない。
大きな悲しみを経て、彼は感情を麻痺させる術を覚えてしまったのだ。
母を亡くしたのは、中学三年のときだった。
病院の白い天井、消毒液の匂い。母は車椅子に乗るほど衰弱していたのに、運動会の日、どうしても会場に来たいと望んだ。
リレーの最後、佐藤は走った。足がもつれそうになりながらも、ゴールテープを切った。歓声が湧き上がり、友人たちが肩を叩いてくれた。
だがその瞬間、観客席の母の姿を見て、彼の胸は冷えた。
母は確かに笑っていた。だが、その笑顔が次の瞬間には消えてしまうのではないか。そんな恐怖が胸を締め付け、歓喜の声が遠くに感じられた。
喜びを感じることはできなかった。自分だけが、まるで異世界に立っているようだった。
その後、母は静かに息を引き取った。
病院のベッドで小さく「ひろし……」と呼びかけた声を、今も覚えている。だがその時、返す言葉が見つからなかった。声が喉に貼りつき、ただ見送るしかできなかった。
一年前には祖母も亡くなった。
育ての親のような存在だった。枕元で「ありがとう」と言えばよかった。しかし唇は動かなかった。心が麻痺していた。祖母の呼吸が止まったとき、佐藤はただ時計の秒針の音を聞いていた。
「言えなかった」という後悔だけが残った。
その後悔を胸に抱えながら、彼は日々を無表情に過ごしている。
夕方、勤務を終え、八王子駅の雑踏を歩く。人々はそれぞれの帰宅路を急ぎ、居酒屋からは笑い声が漏れる。だが彼の歩みは一定で、表情も変わらない。コンビニで弁当を買い、アパートに戻る。
六畳の部屋でテレビをつけても、画面の芸人の笑顔は自分に届かない。音量を下げ、ただ冷蔵庫の音に耳を澄ます。
夜、ベッドに横たわり、天井を見つめる。
母や祖母の面影が浮かび、胸が締め付けられる。だが涙は出ない。涙を流す回路はもう壊れてしまったのかもしれない。
「ありがとう」と言えなかった自分。
感情を殺した自分。
死んでいないのに、死んでいるのと変わらない日々。
その夜、午前零時を過ぎた頃。
静寂を破るように、携帯電話が震えた。
画面に表示されたのは「非通知」。
胸がざわつく。こんな時間に誰だろう。
迷った末に通話ボタンを押した。
「……はい」
数秒の沈黙の後、かすれる声が響いた。
『……ひろし……』
佐藤は息を呑んだ。
母の声だった。病院のベッドで、かすかに発したあの声。その優しさと弱さを帯びた響きが、受話口から確かに聞こえてきた。
「……母さん?」
その言葉が漏れた瞬間、プツリと通話は途切れた。
画面には「通話終了」とだけ残され、部屋には再び冷蔵庫のモーター音だけが響いた。
佐藤の心臓だけが、今までにない速さで打ち続けていた。
佐藤の一日は、決まり切った機械的な音から始まる。
午前八時、アラームの電子音が鳴り響き、暗い六畳間の天井に小さな震えが走る。携帯の画面は無機質な白光を発し、散らかった部屋の輪郭を一瞬だけ照らし出す。壁に立て掛けられた読みかけの本。脱ぎ捨てられたシャツ。半分飲み残したペットボトルの水。すべてが時間を止められたままのように置き去りにされている。
彼は枕元に置いたスマートフォンを手探りで取り、画面をスワイプしてアラームを止める。その仕草には習慣以上のものはなく、顔には何の感情も浮かばない。目覚めたというより、ただ睡眠が中断された、という表現の方が正確だろう。
カーテンの隙間からは八王子の朝の光が差し込んでいる。遠くで京王線の走る音がかすかに響く。外の世界は、今日も確実に動いている。しかし佐藤の胸には、その事実を受け止める力が欠けていた。
――今日も、ただ働き、ただ生きるだけだ。
彼は無意識のうちにそう心の中で呟く。
駅前のコンビニで買ったパンと缶コーヒーを口にしながら、佐藤はバスに揺られてコールセンターへ向かう。車窓から見える八王子の街は、彼の目にはどこまでも灰色に映っていた。大学時代に仲間と歩いたことのある道も、母に手を引かれて買い物をした商店街も、今ではただ「景色」に過ぎない。
コールセンターに到着すると、蛍光灯の白々しい光に迎えられる。隣の席では早番の同僚が受話器を握りしめ、淡々と顧客の言葉に応じている。受話器の向こうの声は決して見えない。そこに「顔」も「身体」も存在しない。ただ、クレームや疑問や要望だけが、人工的に切り取られた声として届く。
佐藤はそれに応じる。決まりきった文句を、機械的に。
「恐れ入ります」
「確認いたします」
「ご安心ください」
声の抑揚は訓練されたもので、感情を含まない。相手の怒りや苛立ちがどれほど激しくても、それは自分の体を通過していくだけだ。受話器を置いた瞬間、内容は半分以上、記憶から消えている。
この仕事に就いて一年が過ぎた。最初は言葉に慣れるのに必死だったが、今ではただの作業だ。言葉の表面だけをなぞり、内側に潜む感情を感じないようにしている。いや、感じられなくなっているのかもしれない。
昼休み、社員食堂で同僚たちが談笑する声を聞きながら、佐藤は窓際の席に座って弁当を食べた。唐揚げ弁当の味は、昨日も一昨日も同じだ。
「昨日、彼女とさ……」
「うちの子供が熱出してさ」
そんな声が耳に入るたび、彼の胸には奇妙な空洞が広がった。
――自分にはもう、そんな関係性はない。
中学の頃、母が病に倒れた。彼女が車椅子で運動会に姿を見せたことがある。あの日、佐藤はリレーで一番をとった。歓声の中で、仲間たちが彼を囲んだ。だが視界の端に母の姿を見つけた瞬間、喜びは霧散した。彼女の表情は穏やかで、嬉しそうでもあった。けれど佐藤の心はその時、ただ不思議なまどろみに覆われていた。
「母に見せられた」
「勝てた」
本来ならそう誇りに思えるはずなのに、喜びを実感できなかった。心の奥で何かが鈍く痺れ、世界が少しだけ遠ざかる感覚。あの時から、自分の感情の一部は凍りついてしまったのではないか、と彼は今になって思う。
母が亡くなった日も、同じだった。
病室で、ただ静かに呼吸が細くなっていくのを見ていた。最後に「ありがとう」と言おうとした。口はわずかに動いたが、声にならなかった。放心の中で時間が流れ、気づけば彼女はもう息をしていなかった。
その後も、祖母を看取るときも同じだった。頭では分かっているのに、感情が伴わない。言葉が出てこない。残るのは、言えなかった後悔ばかりだ。
夕方、シフトを終えて外に出ると、八王子駅前は夕陽に染まっていた。行き交う人々の声、店先から漏れる音楽。だがそれらはすべて、佐藤にとってはガラス越しのように遠い。
帰宅途中、ふとスマートフォンが震えた。通知を開くと、大学時代の友人からのメッセージが届いている。
――「久しぶりに飲まないか?」
短い一文だった。
彼はしばらく画面を見つめていた。指を動かせば、返事をすることはできる。けれど返したところで、何を話せばいいのか分からない。母を失ってからの空白。祖母を失ってからの孤独。そんなものを話題にできるはずもない。
画面を閉じる。ポケットにスマートフォンを押し込み、歩き出す。返事をしなかったことへの罪悪感は確かにあった。だがそれ以上に「感情を揺らしたくない」という思いの方が勝っていた。
夜。自室に戻り、電気をつける。小さなアパートの六畳間に、また一人の時間が広がる。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、無言で開ける。テレビをつけるが、内容は頭に入らない。画面に流れるニュースキャスターの声は、昼間のコールセンターと同じようにただの「音」にしかならなかった。
布団に横たわり、目を閉じる。脳裏に、母の姿が浮かぶ。車椅子に座り、細い腕で手を振っていたあの日。視界の端に残り続けるその姿。
「ありがとう」と言えなかったこと。
喜べなかったこと。
失った後悔ばかりが、今も彼を苛む。
そして祖母の最期の夜。ベッドの傍らで、声をかけられずにいたあの沈黙。
――二度も同じ後悔を繰り返した。
心は重く、しかし涙は出ない。泣けない自分に気づくたび、さらに深い孤独に沈んでいく。
時計の針が深夜を指す頃、彼はようやく眠りに落ちる。
眠りの中で、声なき母と祖母が交互に現れる。彼女たちは口を動かすが、声は届かない。どれだけ近づいても、耳に入ってこない。
目覚めたとき、胸には冷たい汗だけが残る。
夜の八王子は、昼間とは別の顔を見せる。
駅前のロータリーではバスが行き交い、酔客たちの笑い声が響き、若者たちがスマートフォンを覗き込みながら歩いている。だがそのざわめきの中に立っていても、佐藤には何一つ届かなかった。まるで透明な壁の向こうから他人の人生を覗いているようだった。
コンビニのガラスに映る自分の顔は、どこか空虚だった。無精ひげが少し伸び、目はぼんやりと沈んでいる。二十四歳という年齢にしては、疲労と諦めが刻まれすぎているように思えた。
ふと、向かい側の歩道で人混みの中から見覚えのある顔が現れた。
大学時代、唯一心を許しかけた友人だった。何度か飲みに行き、映画も一緒に観た。彼は人懐っこい笑みを持っていたが、今はスーツ姿で誰かと談笑しながら歩いている。
声をかけようと思えばできた。
「久しぶりだな」と。
だが、佐藤の喉は凍りついたまま動かない。もし彼に声をかけたところで、何を話せるというのか。母の死、祖母の死、心の空洞。そんなことを言えるはずもない。
彼はただ、雑踏に消えていく友人の背中を見送った。
その瞬間、自分がいよいよ「世界から切り離されている」ことを痛感した。かつての繋がりがあったとしても、今の自分には橋を渡る力が残っていない。
アパートに戻ると、部屋は冷え切っていた。
電気をつける。
無言でコートを脱ぎ、椅子に掛ける。冷蔵庫からインスタントの味噌汁を取り出し、電気ケトルで湯を沸かす。湯気が立ち上るが、その温かさが心まで届くことはない。
テーブルに置いたままの祖母の遺影が目に入る。
あの日、彼女は病院のベッドで静かに目を閉じた。最期の瞬間、佐藤は「ありがとう」と言えなかった。母の時と同じように、声が喉に詰まって出なかった。
「なぜ、あの一言が言えないのか」
問いは何度も胸に蘇るが、答えは見つからない。
その代わりに残ったのは、心の底に沈殿する後悔と自責だけだ。声を殺すように生きる習慣は、彼を守るための鎧になったのかもしれない。しかしその鎧は同時に、喜びや温もりを感じる力までも奪い去ってしまった。
布団に潜り込む。
遠くで電車の音が響く。
目を閉じると、まどろみの中に母の姿が現れる。リレーのトラックの端で、車椅子に座って手を振っていたあの日の母。歓声と拍手の中、佐藤は確かに一番になった。けれども、心は喜びを拒んでいた。
母の口が「ありがとう」と動いていたように見えた。だがその声は届かなかった。夢の中でも現実でも、彼女の声は遠い。
目覚めたとき、部屋には冷たい朝の光が差し込んでいた。
携帯のアラームが鳴り、また一日が始まる。
それは新しい日ではなく、昨日の繰り返しにすぎなかった。
眠りの浅さが続く日々だった。
翌朝もまた、アラームの電子音で目を覚ます。カーテンの隙間から射し込む光は昨日と同じ強さで、部屋の中に沈んだ埃を浮かび上がらせる。佐藤は重い身体を起こし、無言で顔を洗う。鏡に映る自分は、ますます他人のように見えた。
その日のコールセンターもまた、変わらなかった。
受話器の向こうから聞こえてくる怒声。料金に納得できないという客。配送が遅れたと不満をぶつける客。佐藤は淡々と謝罪の言葉を繰り返す。声は滑らかだが、心は波立たない。感情を削いで応じる術は、もはや習性になっていた。
「責任者を出せ!」
怒鳴り声に、同僚が顔をしかめる。
佐藤は表情一つ変えずに転送の手続きをする。その無表情さに気づいたのか、隣の席の若い女性がちらりと彼を見た。しかし佐藤は気づかないふりをした。
昼休み。食堂の窓際の席に座り、コンビニのパンをかじる。外の道路を見下ろすと、信号待ちをする子どもたちが笑い声をあげていた。ランドセルの赤や青が光に揺れている。
かつて自分にも、あの無邪気さがあったのだろうか。思い出そうとするが、記憶は遠く霞んでいる。代わりに浮かぶのは、母が病室のベッドに横たわる姿ばかりだった。
退勤後、佐藤はふらりと駅前の路地を歩いた。
居酒屋の暖簾をくぐる人々。笑い声が路地裏まで漏れている。二人連れの学生が「就活どうする?」と笑い合いながら通り過ぎた。サラリーマン風の男たちが肩を組んで歌うように駅へ向かっている。
佐藤は立ち止まり、その喧噪を眺める。
――自分は、あの中には入れない。
足が前へ出ない。声をかける術も持たない。
しばらくして、駅から少し離れた坂道を登った。住宅街の灯りがぽつぽつと浮かび上がっている。坂の途中にある公園には、誰もいなかった。ブランコが風に揺れ、錆びた金具が小さな音を立てる。
佐藤はベンチに腰を下ろし、夜空を仰いだ。
母と祖母を失った空白が、胸の奥でじわじわと広がっていく。星はかすかに光っているが、手を伸ばしても届かない。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を開くと、昨日無視した大学の友人からさらにメッセージが届いていた。
――「元気にしてるか?」
短い問いかけ。しかし、その文字の明るさが佐藤には痛かった。
「元気だよ」と返すだけでいいはずなのに、指は動かない。言葉を打ち込もうとすると、胸が重く沈んだ。やがて彼はスマートフォンを画面ごと伏せ、ベンチに置いた。
夜風が頬を撫でる。遠くで犬の吠える声がした。
そのすべてが、彼に「世界は続いている」と告げていた。だが、その世界に自分が参加できる気はしなかった。
深夜、部屋に戻る。
蛍光灯の光が白く冷たい。机の上には読みかけの本がある。ページを開くが、文字は頭に入らない。テレビをつけても同じだった。
沈黙の部屋に、冷蔵庫のモーター音だけが響く。
彼は布団に横たわり、天井を見つめる。
過去の断片が、夢と現実の境を曖昧にしながら蘇る。
母の車椅子。リレーのトラック。歓声。
祖母の病室。白いシーツ。時計の針の音。
そして「ありがとう」と言えなかった二度の沈黙。
その記憶は刃物のように鋭く、しかし同時に感情を麻痺させるほど冷たかった。
やがて瞼が重くなり、意識が暗闇に沈んでいく。
夢の中で母が現れる。祖母も並んで立っている。二人は口を動かしているが、声は聞こえない。どれだけ耳を澄ませても、届くのは沈黙だけだった。
佐藤は声を出そうとする。喉が震える。しかし、やはり音にはならない。
「ありがとう」と言いたいだけなのに。
そのもがきの最中に、目が覚める。
午前四時。外はまだ暗い。
時計の秒針がやけに大きく響き、部屋の空気は冷え切っている。
彼は身を起こし、深く息をついた。
――明日も、同じ一日が始まる。
そう思うと同時に、胸の奥で小さな虚無がさらに広がっていった。
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