第25話
吟遊詩人エリアスが去った後も、俺の心は晴れなかった。
勇者ギデオンたちが、遠い前線で苦しんでいる。その事実が、喉に刺さった小骨のように、俺をちくちくと苛んでいた。
彼らを助けたいわけじゃない。
だが、彼らが敗北すれば、魔王軍の脅威はいずれ、このアイナ村にも及ぶだろう。フェンが狩りをする森が焼かれ、グロムさんが守るギルドが破壊され、村人たちの笑顔が消える。俺が手に入れた、このかけがえのない日常が、失われてしまう。
「……そんなのは、絶対に嫌だ」
その夜、俺はフェンとグロムさんを工房に集め、自分の決意を告げた。
「俺は、勇者パーティーのために、最高の携帯食料を作ろうと思う」
「カケル……あいつらのためにか?」
フェンが、納得いかないという顔で尋ねる。
「ああ。でも、これはあいつらのためじゃない。俺たちの、この村の日常を守るためだ。俺は、俺の料理で、俺たちの家を守りたいんだ」
俺の真剣な瞳を見て、二人は何も言わずに頷いた。
グロムさんが、ニヤリと口の端を上げる。
「ふん、面白い。てめえの料理で、戦争を裏から操るってわけか。いいぜ、手伝ってやる。最高の兵糧で、魔王軍の度肝を抜いてやろうじゃねえか!」
俺たちの、新しい挑戦が始まった。
目標は、兵士たちの疲弊しきった心と体を、芯から回復させる究極の兵站食。
まず、一品目。【濃縮生命のシチューキューブ】。
恵み畑で採れた栄養満点の野菜たちを、何日もかけてじっくりと煮込み、ペースト状にする。そこに、熟成させた猪肉のミンチと、骨から取った濃厚な出汁を加え、さらに煮詰めていく。最後に、エルフの国で分けてもらったハーブを少量加えることで、驚異的な保存性を実現した。
完成したキューブは、指先ほどの大きさだが、お湯を注ぐだけで、一人前の、滋味あふれる温かいシチューに早変わりする。
次に、二品目。【世界樹の恵みビスケット】。
恵み畑で採れた木の実や果実を乾燥させ、粉末にする。それを、同じく畑で採れた栄養価の高い麦と混ぜ合わせ、世界樹の若葉から滲み出た雫を数滴だけ加えて練り込み、焼き上げたものだ。
一枚食べるだけで、数時間戦い続けられるほどのエネルギーが体に満ちる、まさに奇跡の非常食だった。
数週間後、俺の工房には、山のようなシチューキューブとビスケットの箱が積み上がっていた。
俺は、クレセント商会のバルトさんに連絡を取り、アイナ村まで来てもらった。
事情を説明し、完成した兵糧食を試食したバルトさんは、商人としての顔を興奮に紅潮させた。
「か、カケル殿! これは……これは戦争の勝敗を左右しますぞ! これほどの兵糧があれば、王国軍は今の十倍の力で戦える!」
「バルトさん、お願いがあります」
俺は、彼に深々と頭を下げた。
「俺は、前線に行くつもりはありません。この兵糧を、クレセント商会の商品として、王国軍に卸してほしいんです。俺の名前は出さずに、『辺境の、とある村からの支援物資』として」
これは、施しではない。ビジネスだ。俺が表舞台に出ることなく、この村の平和を守るための、最善の方法だった。
バルトさんは、俺の意図を即座に理解した。
「……承知いたしました。カケル殿の崇高なるお気持ち、このバルト、商人の魂にかけて、必ずや前線までお届けします!」
その数日後。
アイナ村の村長の計らいで、村中の荷馬車が集められた。
俺たちが作り上げた究極の兵糧が、次々とクレセント商会の紋章が描かれた幌馬車へと積み込まれていく。
俺とフェン、そしてグロムさんは、村はずれの丘の上から、その光景を静かに見送っていた。
長く、長く続く馬車の列。それが、遠い戦場へと続く、俺たちが作り出した「補給線」だった。
「なあ、カケル。あいつら、ちゃんと感謝するかな?」
フェンが、ぽつりと呟く。
俺は、首を振った。
「感謝なんて、いらないさ。ただ、あいつらが腹一杯になって、本来の力を出してくれれば、それでいい」
俺は、かつて自分を追放した勇者のことを思う。
今頃、彼は空腹と焦燥感の中で、独り苦しんでいるのかもしれない。
届け、この料理。
お前たちが、かつて切り捨てた男が作った、この一皿が。
お前たちが守るべき、この世界の片隅にある、ささやかな平和のために。
馬車の列が、地平線の向こうに消えていく。
俺は、静かに工房へと踵を返した。
辺境の料理人の戦いは、まだ、始まったばかりだった。
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