アポカリプスの唄は一人で聴いて

「……お願いだから、君だけは死んでくれ」


 血を吐くような声が、そんな馬鹿げた言葉を落とした。

 ……どうしよう。流石に反応に困ってしまって、何も言えなくなる。というか、さっきまでは普通に雑談してたはずだったのに、どうしたんだこいつは。何?  私が知覚してた世界は偽物だとかいう怖い話? 

 しばらく沈黙が流れたあと、顔を両手で覆ったままの人が、また口を開く。


「どうか、……どうか。頼むから。地獄とか天国とかは、信じちゃいないから。そんな場所には行かなくていいから。……頼む、死んでくれよ」

「………………いや、そんなことを頼まれてもさぁ」


 困る。それはそれは大困りだ。普通に死にたくない。まだまだ死ぬつもりはない。

 だけども、彼は徐ろに顔を上げて、私のことをひどく睨みつけた。ええ……こわ……。さっきまで楽しく雑談してたじゃん。目玉焼きに何かけるかって議論、すごく白熱してたじゃん。じゃんじゃじゃん。何があったのかわからなさすぎておかしくなりそう。


「…………俺が」


 憎まれるようなことしたかな……。全然わからん……。こわ……。

 などと私が一人で慄いている間に、彼は言いたいことをまとめ終わったらしい。落ち着いた口調で、けれど視線だけは鋭いまま、ゆっくり語り始めた。


「俺が、……うん。俺が悪かったのも、あるんだろうって。わかってる」


 ずいぶんと長い時間を一緒に過ごしてきたつもりだったけど、私の思い違いだったのだろうか。それとも、長い時間を過ごしてきたからこそ、何かが歪んでしまったのだろうか。


「ずっと、永遠に一緒にいよう、なんて。……馬鹿げたこと。君にだけは言っちゃ駄目だったよな」


 指先が触れる。

 熱いな、と。ただ、それだけを思った。


「頼むよ。君だけは」


 懇願する声は、憎悪以外の色で震えていた。……愛していたような気がする。くだらない話をだらだらと続ける日常を。取り留めもないまま続いていく毎日を。大きな起伏などないまま、終わりなどないまま、繰り返す日々を。

 多分、愛していた。愛している。だから。


「いや、普通に死にたくないよ。……うん。死にたくは、ないなぁ」


 このままでいいじゃないか。目玉焼きにかける調味料の話とか。見上げた先の雲が何の形に見えたかとか。猫の可愛い仕草ランキングとか。そういう、意味などない会話だけを繰り返していけば、それでいいじゃないか。


「…………」

「だってさ、私は毎日楽しいよ。何も嫌なことなんてないよ。あなたと一緒なら、何も、怖くなんてないんだよ」


 それだけでは、理由にはならないんだろうな。口を噤んでしまった彼を見上げながら、目を細める。思えば、ずいぶんと長い時間を。

 長い、──永い日々を。彼と過ごして、きた。尾びれで、水面を叩く。彼の指先に触れるだけで焼け爛れる、弱く薄い皮膚を太陽の下に晒しながら。


「死なないよ」


 ──私の肉を食べた彼の手を、握った。

 それだけで、彼はこの世の終わりみたいな顔になってしまう。


「だって、毎日、ちゃんと楽しいから」


 彼は違うんだろうか。そうじゃなかったのか。彼が望んだのは、今みたいな未来だったんじゃないのか。熱い手のひらを、強く握りしめながら。どうしても同じにはなれない、薄く青い自分の皮膚を眺めながら。どこで間違ったのかを、考える。


「…………あなたは何も悪くないよ」


 北の海の人魚に、毎日飽きもせず花を捧げた人。


「おれ、は」


 滅び損ねた人魚に、人間の暮らしを教えた人。


「……こんなことになるくらいなら」


 愛なんてくだらない言葉を囁いて、欺瞞でしかない永遠を誓った人。


「君と、出会うべきでは、なかった」


 私が人魚でなければ、ちゃんと、嘘のままにできていたはずの人。永遠という言葉の本当の意味を知らなかった人。


「永遠は、ちょっと、長かったかぁ」


 彼が何に耐えられなかったのか、私にはわからない。彼がどうしてこんなにも苦しんでいるのか、それもわからない。

 わからない、と思うたびに。私はただ、自分が人間じゃなかったことを思い知らされる。ちょっとした絶望だ。そこまで大層じゃないけど。私に死んでほしいと願うくらい、彼はこの毎日が辛かったらしい。私はこんなにも楽しかったのに、彼は違うのだ。だったら。


「…………きみがすきだよ。好きだったよ。今もきっと、あいしている。だけど、……だけど」

「うん」

「君が生きているのには、耐えられない」

「なんか難しいこと言うね」


 首をひねると、彼は笑った。ああ、そういえば。彼が笑うのは、久々に見た気がする。なんだ、本当に擦り切れてたんだ。じゃあしかたないか。


「…………わからなくていいんだ」


 出会うべきじゃなかったね。あなたは、傷だらけの人魚を助けてはいけなかった。


「私が死んだら、あなたは一人になるよ」

「それでも。……どうか」


 死は救いだ、と。遠く、どこかで、誰かが。名前も知らない宗教が、そんなことを騙った日があった。別に信じてはいない。

 死は死だ。ただの空虚だ。その先にはなにもない。楽園も煉獄もありはしない。在るのは、遺されていく世界だけだ。──それでも、と。彼が言うならば。


「私、あなたのことが好きだったよ。身体をどれだけ抉っても構わないほど」


 永遠を騙る声を思い出す。あのときの私は確かに、その未来に幸福を見た。そう、幸せだった。確かに、紛うことなく。中途半端に終わってしまう永遠の誓は、私にとっての救いだった。


「…………だから、うん。いいよ」


 音を立てて、水から身体を出す。それだけで全身が痛むから、まあ人間と比べると不便な身体だな、と実感してしまう。足いいよね足。便利そう。

 お伽噺の中だったら、声とかと引き換えに歩けたんだろうけど。魔法なんてものはない世界なので。困ったことだ。


「できれば、残さずに、全部食べてね」


 太陽に触れてる気分。熱い身体を両手で抱き締めながら、そんなことを思った。全身全霊の気合を入れて、苦痛に歪む顔じゃなくて笑顔を見せる。……ああ、くそ。これでいいんでしょ。これでようやく、あなたは、笑えるんでしょ。それならいいと思ったのに、どうして。


 なんで。今更。泣いてるんだ、馬鹿。

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