墓標もどき

 死んだ人間が花になるようになって、幾星霜。……いや、幾星霜は言いすぎたかな。でも実際に何年くらい経ったのかはよくわからない。

 ある瞬間、不意に、この世界から死体は消え失せた。……だなんて、ほらさ。出来の悪いフィクションみたいで、不愉快でしょう。

 けれど実際にそうなった。花は咲いた。最初にそれを観測したのは、どっかのお医者さんだって聞いてる。

 まあ、それはそうだろう。この世界で一番死に近い職業みたいなものだ。……一番、命に近い。と言ったほうがいいだろうか。生と死の狭間を揺蕩うような、嫌な仕事だと思う。

 あの人もそんなふうに働いていた。目の前の一人を生かすために。


 そうなってから、世界は間違いなく平和になった。いや、どうなんだろう。平和ではない部分、不穏な部分、醜いところが見えにくくなっただけかもしれない。

 だって死体は花になる。それも、とびっきり綺麗な一輪の花だ。命の美しさをそのまま映し出したようなそれは、死という言葉の断絶を静かに壊した。


 ──だから、自殺が流行ったのはしかたがないことなのだろう。


 生きているときにどんな姿だったとしても、どんな生き様だったとしても、その人生は一定の規則に伴って花に変換される。

 それは、誰かにとっては救いなのだ。確かに、救いになってしまった。

 大きなニュースになっていた、集団自殺の事件を思い出す。花畑のような室内を。人生のすべてが、ただ一輪の花になる。名前のない、唯一無二の一輪に。

 司法解剖は昔の言葉になったし、バラバラ殺人は容易になった。けれど、同時に、人は死への忌避感すら薄れさせていく。『それ』によって、人は美しく終われるのだと刻みつけられた。ハッピーエンドが決められた物語のように。


 私があの人と出会ったのは、世界がそう成り果ててからだった。今でもあの瞬間を覚えている。風が吹いて、長い髪が靡いて、その隙間からひとしずくだけ涙が落ちる。花のような人だと思った。花束を抱えていたから、だったかもしれないけど。私の目にはどんな花よりも、あの人こそが綺麗に見えたのだ。

『死んでしまったの』

 ぽつり、と落とされた声はどこまでも透明で。花が風に揺れただけの音みたいに、静かだった。

『助けられなかった』

 身元の分からない遺体なんて、今どき珍しくない。死んだら花になる。それが生前どんな姿をしていたのかなんて、誰にもわからない。

 だから、あの人は抱えていた。医者として助けようとした命を、救えなかった命を。誰だったのかすらもう判別できない、命だったものを抱えて。あの人は途方に暮れていた。

 集団自殺のニュース。あの人が駆けつけた場所。手遅れだった全て。本来なら悍ましかった何もかもが、私の目には美しく映ってしまった。

 世界は歪み切っている。流れた血も、溢れた臓腑も、軋むような苦痛さえ。人間は忘れてしまった。そんな世界でも、あの人はひどく真摯だった。命に向き合って、死を悼んで、遺体を哀れむ。

 歪み切った世界で、それが、どれだけ得難いことなのか。あの人には自覚などないのだろう。当たり前のことを、当たり前に、大切にして。


 ……私はあの日、あの人が抱えるうちの一輪に成り果てる予定だった。けれど、そうはならなかった。なれなかった。生来の臆病さのせいで、足が動かなかったからだ。

 遅れて辿り着いた現場であの人を見た瞬間に、それが僥幸だったことを理解した。世界は美しい。それは、人が花にならずとも。

 あの人は優しい人だった。私があの場に現れた理由をすぐに理解して、話し相手になってくれるくらいに。こんな取るに足らない一人の、悩みに寄り添おうとしてくれるくらいに。一人の命に潰されそうなくせに、山のようなそれを抱えて生きていくくらいに。立派で、誠実で、愚かしい人だった。


 ──だから、だろうか。私の職を聞いたとき、あの人がひどく顔を歪めたことを思い出す。

 花を加工したり造花を作ったり、なんて。見方によっては、死体でパッチワークでもしているようなものだ。倫理的に間違った在り方だ無理はない。それでも致命的に需要があった。元は、ただの花屋だったというのに。

 美しいままで保ちたい。忘れたくない。どうか永遠に枯れないようにして。同じ花を作って。あの人を。母を恋人を妻を子供を。永遠のものにしてくれ。

 ああ、なんて馬鹿げた願いだろう。ただの死骸に縋るなんて、あまりにも馬鹿げている。だとしても、希望を見てしまうのも無理はないだろう。だって、花が咲いているというのは、生きているのと同義だ。

 死んだ瞬間にそんな形で生まれ変わるなんて、輪廻転生にしても斬新すぎて笑えてくるけども。遺されたものに縋ることは、わからなくない。

 だからこそ、一介の花屋だった私がこんな仕事をこなすようになったのだ。

 変化に対し特に感慨はないが。多くの花に触れた。多くの人の生き様を聞いた。

 あの子は赤が好きだったから赤い花なんだ。彼は派手なのが嫌いだったから花弁がシンプルなのかな。香水とかつけてなかったから、無臭なのかもしれない。聞いた。聞いて、聞いて、聞いて。考えた。考えたからこそ、私はあの場所に行こうとしたのだろう。

 識りたくなったのだ。私の人生が、どのような形で表されるのか。世界は私をどう精算するのか。人のそれを知ったから、私も自分のそれが気になった。きっとこうなるだろう、という予想の花を一輪だけ造って。答え合わせは、次に店に来た誰かがしてくれるとして。

 ……多分、本当に、知りたかっただけだ。今は、どうだろう。あの人を模った造花を造りながら、ふと考える。自分の成れの果てについては、気にならなくなった。あの美しい人に出会ったことで、もっと気になることができたからだ。


『──軽蔑するよ』


 私に向けられたあの言葉を、視線を、思い出す。ああ、正しい人だ、と。そう思いながら。継ぎ接いだあの人を造りながら。どうか、──いつか。そう、祈る。


「……私の前で死んでくださいね」


 誰よりも、何よりも、途方もなく美しい人。あの人が花になったならば、それは私が見てきたどれよりも美しいに違いない。そうでなければならない。

 ……きっと花弁は白だろう。白衣がよく似合うから。少しだけ華やかな花だろう。とても綺麗な人だから。香りはどうだろう。考えるだけで楽しくて、また一つ、あの人を一輪追加する。

 どれが正解だろうか。どれも間違いだろうか。思案は楽しい。何よりも、楽しい。だって、美しいものが嫌いな人なんていないのだ。死骸にすら美を見るのだから、当然だ。

 鼻歌混じりに手を動かしながら、ふと、窓から外を見下ろした。普通の、自然に咲く花が、花壇でひしめきあっている。

 あの人の目には、もしかしたらこれが、死体の山にでも見えるのかもしれない。そうでなくとも、そう見えてしまう。きっと、あの人は正しい。世界はそうなっている。だから、きっと。私があの人に愛される日は。私がどう咲くのかをあの人が知る日は。未来永劫、来ないのだ。それが少し、本当に少しだけ、悲しいかもしれない。


「……そうだ。造花でも送ってみましょうか」


 私を模した造花をひとつ。……なんてね。

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