第9話 城の番犬ガルム
「――待って!」
自分の声で飛び起きたユーフェミアは、目の前の風景が粗末な小屋の中に変わっていることに気づいた。膝の上で、驚いた顔の子犬が固まっている。
「あ、…あれ?」
辺りを見回して、自分の手を確かめ、顔にぺたりと触れる。
今度は現実だ。それに、いつの間にか夜が明けて、窓の外は明るくなっている。
ということは――
(生き残れた…?)
「ユーフェミア様? どうかされましたか」
扉の向こうから、ヘグニの声が聞こえる。
「あ、何でもないです! 起きました。いま、そっちに行きます」
自分が確かに生きていて、どこも変わったところがないことを確かめると、ユーフェミアは、ほっと安堵の息をついた。
「よかった…。お前も、一晩一緒にいてくれて、ありがとうね」
「ワン!」
誇らしげな顔で尻尾を振る子犬をめいっぱい撫でてやってから、彼女は、解いていた長い髪を手早く結い上げて一つにまとめ、朝食の席へと向かった。
今朝の食卓には、煮込んだ野菜と、薄切りのパンが並んでいる。それに、搾りたてのミルクも。
「おはようございます。裏の牧場でミルクを貰ってきました。どうぞ」
ヘグニは、まるで熟練の執事のような口ぶりで言う。あばら家の粗末な食卓ということさえ意識しなければ、まんざらでもない待遇だ。
「ありがとうございます」
席につくと、足元には、おこぼれを貰おうと子犬が滑り込んでくる。
ふと、彼女は思いついた。
「…あの、今日はお城の様子を見に行くつもりなんですが、この子を借りていってもいいですか?」
「構いませんが、番犬としては頼りないですぞ。まだ子犬です」
「十分役に立ちますよ。一人だとちょっと心細くって」
(…それに、毒蛇がまたどこかから襲ってこないとも限らないから)
心の中で呟く。
夢の中で出会った父の幻は、「ヘビが出たら危ない」と言っていた。
あれが本当に古代の風景かどうかなど、分からない。ただ、警告はきっと本物だ。この先も毒蛇に襲われる可能性がある。それを防ぐには、「ヘビ避けのルーン」なるものが必要なのだと。
(ルーンがどうとかっていう話は、お父さんの手紙にもあった。つまり、ヘビに襲われないための”おまじない”みたいなのが、どこかにある、ってことよね)
考え込んでいるユーフェミアの様子には気づかずに、ヘグニは、上機嫌で昼食用のサンドイッチを作っている。
「お屋敷までは道案内いたしましょう。ガルムの奴が警戒して出てくるでしょうから、最初は慎重に行ったほうがいい。ガルムは、先代の
(まだ、決めたわけじゃないんだけどな…)
心の中で呟きながら、パンの切れ端を足元の子犬に投げてやる。とはいえ、結果的に、あの城に寝泊まりするのが調べ物にはいちばん効率が良さそうだ。
「そういえばヘグニさん、”ヘビ避けのルーン”って、知ってます?」
もののついで、のつもりだったのだが、ヘグニは手を止め、驚いたような顔になった。
「さすがは、よくご存知ですな。ここいらの者は皆、身につけとります。ほれ、わしはここに」
「えっ?」
ヘグニは、首から下げていた古びた木札を、シャツの下から取り出した。そこには、焼きごてのようなもので描かれた、棒の組み合わされた印がある。
「昔から伝わるお守りです。ここいらは、ヘビが多いもんですからな。そういえば、ユーフェミア様はお持ちではないのですかな。なら、ひとつお持ちくだされ」
「みんな知ってるものなんですか」
「ええ。ただ、わしら一般人は、全てのルーンに通じておるわけではありません。
(つまり、ルーンっていうのはたくさんある”おまじないの模様”のことで、お父さんが手紙に書いていた”先祖代々の秘密のルーン”っていうのは、ヘグニさんでも知らないようなもののこと…なのかな)
少しずつ、父の言いたかったことが見えてくる。
まさか、こんなおまじないの文字ひとつで本当にヘビ避けになるとも思えないが、毒蛇が「呪い」だというのなら、「おまじない」で対抗するのは正しい手段だとも思える。
「ヘビは、ヨートゥンどものしもべだったのです」
そう言いながら老人は、物入れの奥から取り出してきた、白い滑らかな石をユーフェミアに差し出した。表面に、ヘグニの持っている木札と同じ文字が刻まれている。明らかに女物の首飾りの一部だ。大切に保管してあったようだし、誰か、今はもういない家族のものかもしれない。
「ヨートゥンは、千年前、火山が火を吹く以前に海を越えて島を侵略にやってきた邪悪な巨人どもです。奴らは蛇の
(
もし、その家系の人々がクリーズヴィ家の祖先と仲違いするか恨みを買う貸していたのなら、蛇に命を狙われる理由にはなるかもしれない。ただ、千年も昔の出来事が原因というのは、いささか神話めいては聞こえる。
「毒蛇を駆除したりは、していないんですか?」
「無論、見つけ次第殺します。これでも、昔に比べればマシになったものですよ。翼あるヘビや大蛇の種族はすべて狩られましたからな。火を吹く大蛇の討伐には、百人以上を擁したとも言われます」
「……。」
にわかには信じがたい話だった。
ただ、もしかしたら誇張されているだけで、似たような何かはいたのかもしれない。
既に幾つかの信じがたい出来事を体験したあとでは、ユーフェミアも、自分のこれまでの常識を少し疑う気持ちが生まれ始めていた。
ヘグニに借りたお守りを身に着けると、ユーフェミアは、ヘグニと子犬を連れて小屋を出発することにした。
朝の光の中、夏草の生い茂る草原は眩しく輝いている。野の花が咲き乱れ、鳥たちのさえずりも聞こえてくる。
ただし、人も、放牧されている家畜もいない。近くの村のほうからも人はやって来ないし、村と小屋の間を流れる小川の辺りにも、動くものは何も無かった。
美しく、のどかな風景でありながら、あまりにも寂れすぎている。かつてもっと住民がいた時代なら、この風景も違って見えたのだろうか。
老人は、昼食の入った籠を手にして先に立つ。
「まずは、お屋敷の中が暮らせる状態か確認いたしましょう。もう五年、誰も手入れしないままなのです。雨漏りなど、していないとよいのですが…」
「それは、そうね」
ユーフェミアも、風景を眺めていた視線を足元に戻した。
村の方を見に行く前に、これから住むことになる屋敷を確かめなければならない。もしかしたら、昨夜一晩過ごしたあばら家よりもひどい状態かもしれないのだ。そうではないことを願うばかりだった。
丘の上の城までは、徒歩で向かった。ヘグニいわく、「ロバのスキムファンクシが怖がって丘へは向かいたがらない」らしい。
だが子犬のフェンリスは、ロバと違って恐れ知らずに、はっはっと嬉しそうに息を吐きながらユーフェミアの足元をついてくる。
「今となっては、地元の者も、ほとんど寄り付きませんでな。あの城を取り囲む森には、良くない小人が住むという噂があります」
「小人…? 巨人の次は、小人ですか?」
「この島小人といえば、ドヴェルグのことですよ」
(…また、聞いたことない言葉が出てきたわね)
ユーフェミアは、覚えようと頭の中で何度か、その言葉を繰り返した。
「ドヴェルグっていうのは、昔からこの島に住んでた種族なんですか?」
「そうです。九つの種族の一つ。手先の器用な連中で、道具づくりなんぞを任せると巧くやったそうですが、地下に住む連中なので、太陽の光に当たると死んでしまうのです。それで、火山が噴火した時に、住処の洞窟に溶岩が流れ込んで全滅してしまったとか」
「…それが、あの森には生き残っているかも、ってことですよね?」
坂道を歩きながら、目の前に迫ってくる鬱蒼とした森を見上げる。森は城壁を取り囲むように、まるで人を寄せ付けないためにそこにあるかのようにも見える。
(おとぎ話の”いばら姫”の城みたいね。といっても、ここに生えてるのは、いばらじゃなくてイトスギか何かみたいだけど)
木々の作る木陰に入ると、ひんやりとした風が頬に触れた。行く手に、古い石段が埋もれて、そのまま土で固まったような、人工的な段が見え始める。
長年、人が通い続けた痕跡だろう。既に固められた地面は、五年の歳月でも保たれているのだ。
その階段部分に一歩踏み込むと、空気が変わった気がした。
湿気混じりの風に乗る、微かな獣の匂い。本能的に警戒心の呼び覚まされるような感覚だ。ロバのスキムファンクシが嫌がる理由も分かる。五感全てに訴えかけてくるような、何か異様な気配があるのだ。
「さて、この先です」
通い慣れているはずのヘグニですら、苔むした石段に足をかけながら、すこし緊張したような声で言った。
「ガルムの奴は、森の中をウロウロして警戒しとるんです。どこで出くわすか予想もつかない。わしが先に行きます。大丈夫とは思うのですが。何しろ、やつももう老犬ですからなあ。耄碌して、ユーフェミア様を見誤るようなことがあれば…その時は…」
「え、待って待って。そんな、猛獣に出くわすみたいなこと言わないでください。というか、老犬なのに危険なんですか? その、ガルムっていう犬」
「まあ…見れば、すぐに分かるのですが、あれは…」
言い終わらないうちに、足元にいた子犬が、ぴくんと耳をそばだてて立ち止まった。森の奥の方から、低く、地鳴りのような唸り声が聞こえてくる。木々の枝が細かく振動し、ぱらぱらと葉が落ちてくる。
「嘘、これ犬の声ってレベルじゃ…」
「むう。もう嗅ぎつけてきおったか」
ヘグニは昼食の入った籠を大事に小脇に抱え、身構えている。
木々の奥から、のっし、のっしと黒い塊が、こちらに向かって近づいてくるのが見えた。
「……えぇ…?」
信じられない光景に、間の抜けたような声しか出せなかった。
何しろそれは、牛ほどの大きさのある、犬と呼ぶにはあまりにも大きすぎる生き物だったからだ。
首輪をしているのと、形だけは犬なので、辛うじて犬と認識できるに過ぎない。盛り上がった背に銀色に輝く毛が逆立ち、赤い目をギラギラと輝かせたそれは、まるで、神話の世界から抜け出してきた地獄の番犬のようだった。
「ワン!」
足元で、フェンリスが果敢に吠えた。
巨大な犬は、じろりとそちらを睨む。
「あ、こら」
ユーフェミアは、あわてて子犬を抱き上げた。ケンカを売られたと思った番犬が、子犬に襲い掛かるのではないかと思ったのだ。
「ガルム、私たちは別に、悪いことをしにきたわけじゃないのよ。お祖父さんが亡くなったあと、ここをちゃんと守ってくれてたことは分かってる。お屋敷の中に入れて貰えない?」
「……。」
唸るのをやめ、犬は、じいっとユーフェミアの顔を見つめ、ふんふんと鼻を鳴らした。
ヘグニのほうは、まだ警戒したまま、いつでもユーフェミアを庇えるようにと身構えている。
「そうだぞ。このお方は、ヘイミル様の御息女だ。お前の主人になる、新しい
「フフン…」
鼻を鳴らし、巨大な犬は湿った鼻をユーフェミアの前に突き出して、少し頭を提げた。
「…あ、通してくれるの?」
おそるおそる手を差し出して鼻先に触れると、犬は、フンと鼻の奥を慣らして答えた。
「良かった…」
ほっとして、彼女はヘグニのほうを見やった。
「大丈夫みたい。先に進みましょう」
「おお。さすがは、
「…ユーフェミアです」
子犬を抱いたまま、ユーフェミアは、そろそろと巨大な狼犬の横を通り過ぎた。襲ってこないとしても、あの赤い目に見つめられると、少しぞわぞわする。
(ていうか、…あれ、本当に犬なの? 小人以前に、怪物犬のほうが信じられないんですけど…!)
内心では混乱の極みだったが、表情には出さず、至って平静を装っていた。
少し坂道を登ったところで振り返ってみると、巨大な怪物犬はまだ、辺りの匂いを嗅ぎ回りながら、森の中を歩き回っているところだった。
(あんなものがいたんじゃあ、ヘグニさんも城に近づけなくて当然だわ。それどころか、他の誰も近づけない…。)
腕の中の子犬に、ちらと視線をやる。
(番犬としては、この子より役に立ちそうだけど、でも、あんなに大きかったら犬小屋にも入らないわよね…。)
とはいえ、ここはまだ、城の入口にも達していない。いわば前庭とでもいうべき場所だ。城本体には、きっとまだ、驚くようなことが隠されているに違いない。
森の向こうには、城壁がすぐ目の前に迫ってきている。ところどころ石が崩れ落ち、間から草が生えている。夢の中で見た見張り台は、長い年月のうちに朽ちてしまったのか痕跡しか残されていない。
いよいよ、父の実家に潜入――初訪問するのだ。
それにしても、この里帰りは最初から、予想外の出来事ばかりだった。
幻覚や幻聴をもたらす神出鬼没の深い霧。
巨人や小人の伝説に、魔法の文字。
大昔からそびえ立つ、森に囲まれた要塞のような城と、城を守る怪物のような番犬。
既に、これまでの人生で培ってきた”常識”はボロボロになりかけている。
というより、ここは島の外の”常識”が通用しない場所なのだと、さすがにユーフェミアも認識し始めていた。
この島は、いまも神話の時代の影を今も引きずっている。
「伝説」や「魔法」、「呪い」や「運命」といった概念が生きている。
「ありのままの自然」どころではない。――他の島では既に過ぎ去った神話の世界が、今もまだ続く場所なのだ。
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