バードストライク

 待合室は、微熱のようにぼんやりと暖かい。小型のテレビにはよく知らない女優がラーメンを啜っている様子が流れていて、眼科さえなければ自分も今頃夕食を食べていただろうと頭をかいた。時計を見る。十九時半を過ぎた。ソファに腰かけてから、そろそろ三十分になる。

 二年前に白内障を患い、その手術は無事に成功したものの、医師からは後発白内障が出てくるかもしれないから、定期検診にくるようにと言いつけられた。そうして三ヶ月に一度、日頃忙しく働いている目に加齢を思い出させるように、こうして眼科に赴き具合を診てもらっている。

 仕事終わりの疲れも相まって、こうしてもたれていると、抗いようのない眠気が襲ってくる。十分おきにアラームが鳴るよう設定して、呼ばれるまで仮眠をとろうか。そう思って、目をゆっくりと閉じた。

 今日は、久しぶりに高柳さんと立ち話をした。

「お久しぶりです、どう? 企画部は」彼女は同期だったが、半年前に異動で部署を離れてしまった。「うーん、まあ、ぼちぼち? 開発の方がよかったかも」唇の脇にあるほくろが動く。そのほくろが、出会ったときからずっと好きだった。生まれつきと言っていた目の下のクマは、以前より少し深くなっている。

 神経を衝く音。体が跳ねる。自分の三つ前にいた親子連れが呼ばれた。また目を閉じる。

 十年前、鳥になったことがある。無自覚に、誰かの宝石を掴んで、太平洋を渡ったのだった。横には、仲間の鳥がいて、翼が、波をはたく音を聴き比べたのだった。そうして、いつの間にか人に戻っていて、自分の脚は防波堤の所で止まっていた。鳥が、きらめく影を海に落としながら、日暮れのように去っていくのを、ずっと見ていた。

 鼓動を揺らす音。まだ、自分の番ではない。

 電車に乗って、うたた寝をしている。抱えた鞄には、目的とか必要とかがたくさん入っている。居眠りの間、そうしたものを見る目は閉じられ、代わりに心の目が開く。失くしたものとか、居なくなった人とか、手を離した夢だとか、線路で電車の下敷きになっているものを、見ることができる。手を伸ばすと、たちまちそれは消えてしまう。でも、花が散るように、風船が昇るように、一瞬の美しさが視界を覆って、そしてかすかな空白が教えてくれる。居眠りを諌めるように、日々の幻想に囚われてしまった肩を優しく叩く。

「秦野さーん、秦野隆一さーん」

 体が目を覚ます。アラームの二分前だ。心は、静かにまた目を閉じた。診察室の方に歩いていく。体は、そうやって、呼ばれて、迫られて、歩いている。

 結局、後発白内障の兆候は今回も見られなかった。二十時を過ぎている。会社の最寄りにある眼科だから、ここから電車に乗って、家に着くころには二十一時半ほどになる。家で自炊をする余力もないし、店に入って夕食をとろうかと考える。

  ふと、澄んだ空に浮かぶ皆既日食みたいなほくろを思い出した。彼女は、きっとまだ、夕食にありつけてはいないだろう。うちの企画部は激務と話題だ。文章を二回組み直して、送信ボタンを押した。

 それからすぐに、会社の方へと歩き出した。どうしてだろうか、と自分ながら馬鹿らしく思えてくる。返事はおろか、既読もまだついていない。彼女はもしかしたら帰っているかもしれないし、誰かと用事があるかもしれないし、あるいはまだ会社いるが、気乗りしないから無視しているかもしれない。

 しかし、心は、それでも手を伸ばしている。雲の上へ投げた祈りが、鳥にあたると信じて。

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