太陽

 彼は、アイスのカフェモカを啜りながら、額に滲む冷えた汗をぬぐった。やっと息も落ち着いてきて、彼の座っているベンチで迷子になっている蟻を指で案内するフリをして、地面に落っことす子供じみた意地悪ができるほど回復していた。指についた、湿った砂を擦って落とす。歳を食うにつれ、日陰という存在のありがたみが増している彼だった。

 彼のいる世界とは別の、日の照りつける原っぱでは、彼の妻がしゃがみこんでいた。彼女の視線が注がれているのは、息子の陽太である。さっきまでは彼が父親の務めとして遊び相手を担っていたが、このごろの深刻な体力低下のため三十分ほどまえに妻とバトンタッチした。

 彼は、陽太の小さな四肢が蔓草のようにあちこちを向くのを見て、公園に来たのは何時頃だったろうかと空を仰ぐ。途方に暮れたわけではなく、太陽の位置を確認するためだ。彼は、空と地図を見れば今の時間をかなりの精度で言い当てられるのが特技だった。数年前、気象庁に出入りしていた時分に習得した技である。

 カバンからこのあたりの地図を出して、経度を確認した。東経一三六度三一分二十秒。それを東京天文台の経度から引いて、差は三度と十三分十秒。ここは、東京天文台よりだいたい十二分と五十二秒南中時刻が遅いようだ。今日は六月二十日だから、十一時四十三分にそれを足して、十一時五六分になるかならないかというところか。日の入りの時間は、十九時十三分になる。

 彼はまた地図を確認しながら、左手の親指と人差し指を、それぞれ真南と太陽に重なるように開いた。角度を測るためである。目算して、六五度よりすこし大きく、七五度よりは確実に小さい。四分の三に余り、と彼はつぶやく。暗算の結果、午後五時十六分だろうということになった。

 彼は、おそるおそる腕時計に目を向けた。なにが起こるわけでもないのに、やけに緊張する。

 はたして時計が教えてくれた現在時刻は、五時十八分だった。彼は小さく舌打ちをしてから、空を見上げて、肺の空気を交換する。

 草原のほうにふたたび視線を下ろすと、妻と陽太が手を繋いでこちらのほうに歩いてきていた。三時間半も遊んだのだから、さすがに体力も尽きたのだろう。

「陽太、疲れたか?」

「パパ、さっきね、太陽がすっごく近かったんだよ」陽太は、手で大きな円の軌跡を描いた。

「さっきからね、その話ばっかりなの」妻が口を挟んだ。「なぁにを言ってるんだか、さっぱり」

「それはどのあたりで見た?」彼は空になったカップを潰して立ち上がる。「パパにも見せてくれよ」

 体力が回復したおかげもあって、彼はそこそこ機嫌がよかった。また、天文という自分の領域で、眼前の汗ばんだ二人が抱える不思議を明かして、父の威厳を誇示したい欲求も胸中にあった。

 陽太のきなこ揚げパンみたいな砂のついたふくらはぎに案内されて、彼は原っぱのある位置に立った。

「ここで合ってるの?」

「うん、このへんで遊んでたら、太陽がすごい近くに来た。頭のすぐ上だった」陽太は興奮しているように見えた。鼻血を出さなければいいが、と彼は思う。

 彼の向いている方角は、太陽とはちょうど反対だった。この時期なら夕方から木星が見られるが、太陽より距離は遠いし、また大きくもない。はたして、一体何と見間違えたのか……。

 彼はそのまま東の青ざめた空を眺めたり、もしかしたら陽太が間違っていたのかもしれないと左右に視線を動かしたが、それらしいものは何もなかった。

 ちょっとした悪戯のつもりだっただろうか。五歳ともなるとそうした知恵は抜群に働くものだと彼は思い、「なんにもないじゃないか!」とわざとおどけてやろうと陽太を振り返った。が、陽太はぼんやりと口を開けて、東の空を見つめて「あ」とだけ言った。

 まだやる気かと内心苦笑したものの、陽太の幼い悪だくみに付き合って彼がもう一度東を向いた瞬間、白く発光したものが視界に映って、それから彼は額に衝撃を受けて吹っ飛ばされた。

 彼は尻もちをついて、そのまま仰向けに倒れ込んだ。すぐそばで妻の笑い声がした。上体を起こして西の空を見ると、太陽は樺の高木に串刺しにされていて、その熱が大気に滲んでいた。

 陽太は心配そうに、「ママ、ママ」と妻を呼んでいる。妻は裏拍で引き笑いをしている。東のほうから、グローブをした少年がこちらに歩いてくるのが見えた。

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