ご馳走と縄

サンキュー@よろしく

【三題噺】「スーパー」「縄」「嗅ぐ」

 夕暮れの商店街を二人で歩く。同棲を始めてから、こうして一緒にスーパーへ寄って帰るのが、僕たちの日常になっていた。揚げ物の匂い、甘い菓子の匂い、そして隣を歩く彼女のシャンプーの匂いが混じり合って、僕の心を穏やかにする。


「ねえ、今日は何食べたい?」


 僕の腕に絡みつきながら、彼女が楽しそうに尋ねる。


「君が作ってくれるものなら何でも嬉しいよ。お任せでいい?」


「うん、任せて! じゃあ、そこのスーパーで食材を調達しよっ!」


 目の前のスーパーの自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が僕たちを包んだ。


「さーて、スペシャルなディナーの材料を探しますか!」


 彼女はうきうきした声でそう言うと、二人で慣れた手つきでカートを押していく。同棲を始めてから、僕たちはこのスーパーのどこに何があるか、すっかり覚えてしまった。


 野菜を選び、肉を選び、順調に買い物は進んでいく——かに思えた。彼女が突然カートの向きを変え、向かったのは日用品コーナー。それも、園芸とかDIYとかが置かれているエリアだった。僕が首を傾げていると、彼女はあるものを手に取って、にっこりと笑った。それは、しっかりとした太さの麻の縄だった。


「……えっと、何に使うの、それ?」


「ん——? ひ・み・つ」


 いたずらっぽく笑う彼女に、僕の心臓は変な音を立てる。一体何が始まるんだ……? ご馳走、そして縄。頭の中で不穏な単語がぐるぐると渦を巻く。


「ちなみに豆知識だけど……縄って、人類最古の道具の一つらしいよ。石を木に縛り付けて斧を作ったり、動物を捕まえる罠に使ったり……旧石器時代から、人類の進化を支えてきたんだってさ」


「へぇー! じゃあ、これも私たちの食卓の進化を支えてくれるってことだね!」


 彼女はポジティブにそう言うと、縄をカートに放り込んだ。僕の不安をよそに、彼女の足取りは軽やかだった。


 僕たちの家に帰り着き、二人でキッチンに立つ。手際よくエプロンを身につける彼女の横顔を、僕はなんだか新鮮な気持ちで見つめていた。


「はい、これ」


 彼女が差し出してきたのは、冷蔵庫から取り出した緑色のハーブの小枝だった。爽やかで、少しツンとするような独特の香りが鼻をくすぐる。


「匂いを嗅ぐと、リラックスできるよ。何かわかる?」


「うーん……いい匂い。ローズマリー、だろ? 前に教えてくれたから覚えたよ」


「正解! ちゃんと覚えててくれたんだ。嬉しいな。ローズマリーの語源は、ラテン語の『ロスマリヌス』。『海のしずく』って意味なんだって。昔、地中海の船乗りたちが、航海の安全を祈ってこのハーブを身につけてたらしいよ」


「へぇ! じゃあ、このローズマリーは、僕たちの幸せのお守りだな!」


 それを聞いた彼女は、僕にウィンクしてみせた。そして、いよいよ例のブツ——縄を取り出した。僕は思わずごくりと唾を飲む。


 しかし、彼女が向かったのは僕ではなく、まな板の上の大きな豚肉の塊だった。彼女は慣れた手つきで肉にハーブを擦り込み、塩胡椒をふると、あの縄で器用にぐるぐると縛り始めた。


「え、もしかして……」


「うん、チャーシュー! タコ糸がなかったから、代用できそうなの探しちゃった」


 あっけらかんと笑う彼女を見て、僕は全身の力が抜けていくのを感じた。なんだ、そういうことか。僕の馬鹿げた妄想が恥ずかしくなる。同時に、こんなに本格的な料理を作ろうとしてくれていた彼女の気持ちが嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「私たちの航海の安全を祈る、お守りのチャーシューだね」


 僕がそう言うと、彼女は「うん!」と満面の笑みで頷いた。その笑顔は、どんなご馳走よりも僕の心を豊かにしてくれた。


 オーブンでじっくりと焼き上げられたチャーシューは、信じられないくらい美味しかった。柔らかい肉と、ハーブの香りが口いっぱいに広がる。二人だけの食卓で、僕たちは夢中になってそれを頬張り、他愛もない話で笑い合った。


「いやぁ、本当に美味しかった。ごちそうさま。……でも、正直に言うと、あの縄を見た時、僕が縛られるのかと思ってちょっと焦ったよ」


 食後のコーヒーを飲みながら、僕が冗談めかして言うと、彼女はカップを置いて、意味深な笑みを浮かべた。そして、キッチンの隅に残っていた縄の束を、指先でくるくると弄びながら、こう言ったんだ。


「あら、まだ縄はたくさん残ってるけど……試してみる?」


 昼間のスーパーでの不安が、今は甘い期待となって僕の胸を満たしていく。かろうじて絞り出した声は、ひどく上擦っていた。


「……お手柔らかに、お願いします」

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