第2話 マスターとボクと、見えない病魔


 ​マスターとの奇妙な同居生活が始まった。


 ​あの雨の日以来、ボクはすっかりコノ店の住人になっていた。

 マスターは相変わらず「飼い主が見つかるまでだぞ」が口癖だったけど、ボクのためにフカフカのベッドとピカピカのトイレまで用意してくれた。


 ​ 店の名前は「ひだまり」


 その名の通り、昼間は大きな窓から陽光が差し込んで、うたた寝するには最高の場所だった。

 ただ、その陽だまりを堪能しているのは、ほとんどボクだけ。

 お客さんは、本当にたまにしか来なかった。


 ​マスターは毎日、誰のためでもなくカウンターをピカピカに磨き、豆を挽き、丁寧にコーヒーを淹れていた。

 その姿は、まるで何か大切な儀式をしているみたいだった。

 そして、淹れ終わると決まってボクを膝に乗せ、静かにジャズのレコードを聴くのだ。


 ​夜、シャッターを下ろした店の中で、マスターは帳簿とにらめっこしては深いため息をついた。


 時々、電話の向こうの誰かに「ああ、大丈夫だ。順調だよ」と、声のトーンを無理やり明るくして嘘をついていた。


 そんな時、ボクにできるのは、ただ彼の膝の上で喉をゴロゴロと鳴らしてやることだけだった。

 マスターは「お前だけだな、俺の癒やしは」と力なく笑って、ボクの眉間を優しく撫でてくれる。

 その手が好きだった。


 ​ 穏やかな時間は、唐突に終わりを告げた。


 ​ある頃から、ボクの体に奇妙な変化が起き始めた。

 夜になると体が火照り、自分でもどうしてなのかわからない衝動に駆られて、大きな声で鳴き続けてしまうのだ。

 マスターは心配そうにボクを抱きしめてくれたけど、体の奥から湧き上がる苦しさは少しも治まらなかった。


 ​食欲も落ち、大好きだったカリカリも喉を通らない。

 そんな日が続いたある朝、マスターはボクを小さなカゴに入れると、「病院へ行こう」と固い声で言った。


 ​動物病院という場所は、消毒液のツンとした匂いがして、他の動物たちの不安な鳴き声が響いていた。

 白い服を着たニンゲンが、ボクのお腹を触ったり、冷たい機械を当てたりする。

 怖くて、マスターの腕にしがみついた。


 ​診察が終わると、先生と呼ばれたニンゲンが、難しい顔でマスターに何かを告げた。


「子宮蓄膿症です。かなり進行している。

 緊急手術が必要です。

 このままだと、手遅れになります」


 ​ボクには言葉の意味はわからなかったけど、マスターの顔がサッと青ざめていくのが見えた。

 先生は続けて、手術にかかるお金の額を口にした。

 それは、マスターが毎晩ため息をつきながら見ていた帳簿の、一番大きな数字よりも、もっとずっと大きい額らしかった。


 ​マスターは、絶句していた。


 店の家賃だって、払えるかどうかわからないのに。


 彼は黙り込み、うつむいてしまった。


 ​ボクはカゴの中から、彼の大きな背中をじっと見ていた。


 静寂が怖い。


「捨てられるのかな……」


 ​あの雨の日の記憶が蘇る。


 もう二度と、あの冷たい場所には戻りたくない。


 ​どれくらいの時間が経っただろう。


 マスターはゆっくりと顔を上げると、カゴの中のボクと目を合わせた。

 その瞳は少し潤んで見えた。

 そして、彼は迷いを振り払うように、先生に向かって力強く言ったのだ。


「お願いします。この子を、助けてください」


 ​手術は、成功した。


 ​麻酔から覚めた時、お腹にはチクチクした痛みが走り、首には邪魔な飾りがついていたけれど、ボクはちゃんと生きていた。


 ​数日後、迎えに来てくれたマスターは、痛々しいボクの姿を見て、「よく頑張ったな」と震える声で言った。


 彼の腕の中は、世界で一番安心できる場所だった。


 ​店に帰った日、マスターはボクをそっと膝に乗せた。

 そして、いつになく真剣な顔で、ボクの瞳を覗き込んだ。


「お前の名前は、今日から『フク』だ。福と書く」


 ​フク。 それが、ボクの名前。


​「お前はもう、ただの迷い猫じゃない。

 うちの子だ。だから、頼む。

 うちに、福を呼んでくれよな」


 ​それは冗談めかした口調だったけど、彼の声は本気だった。

 ボクの命を救うと覚悟を決めた、マスターの本気の願いだった。


 ​ボクは、まだ少し痛むお腹で、でも精一杯の力でゴロゴロと喉を鳴らした。


​『フク』


 ​マスターだけが呼んでくれる、ボクだけの、特別な名前。


 ​その響きは、どんなカリカリよりも甘く、どんな陽だまりよりも温かく、ボクの心にじんわりと染み渡っていった。


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🐾ボクとマスターと時々、女神様 月影 流詩亜 @midorinosaru474526707

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