🐾ボクとマスターと時々、女神様
月影 流詩亜
第1話 運命のドア
冷たいアスファルトが、じくじくとボクの肉球から体温を奪っていく。
ザアザアと降りしきる雨は、ゴミの匂いを洗い流し、代わりに都会の冷たい鉄の匂いを際立たせていた。
もう何日、ちゃんとしたものを食べていないだろう。
お腹の皮と背中の皮がくっつくなんていうけど、今のボクはきっと、本当にそうなっている。
カラスの甲高い鳴き声が、すぐ近くで聞こえた。
あいつらは、ボクが見つけたなけなしの獲物だって、平気で横取りしていくずる賢いヤツらだ。
今はもう、あいつらと張り合う元気もない。
「……ミッ…」
声を出そうとしても、喉がカラカラで音がならなかった。
足がもつれて、水たまりに体を半分突っ込んでしまう。
冷たい……
痛い……
もう、ダメかもしれないな……
ぼんやりと霞む視界の隅で、車の赤いランプが滲んでは消えていく。温かい場所で眠りたい。
ただそれだけを願いながら、ボクはゆっくりと目を閉じた。
その時だった。
フワリと、雨の匂いに混じって今まで嗅いだことのない、香ばしくて、少しだけ苦い、優しい匂いがした。
なんだろう、この匂い。
最後の力を振り絞って顔を上げると、通りの向こうに、小さな灯りがともっているのが見えた。
派手な光じゃない。
まるで、いつの間にか居なくなっていたお母さんのような静かで温かい光。
ボクは、その光と匂いに引き寄せられるように、よろよろと歩き出した。
たどり着いたのは、ガラス張りの小さな店だった。
『ひだまり』と、洒落た文字が書いてある。
ガラスの向こう側、カウンターの中で、一人のニンゲンが頬杖をついていた。
それが、のちにボクのマスターになる、吉田義人という男だった。
彼は、帳面みたいなものを広げて、深いため息をついた。
その顔は、なんだかとても疲れていて、寂しそうに見えた。
お客さんは、誰もいない。
静かな店内に、ただ雨音だけが響いていた。
「……」
このニンゲンは、どうだろう。
ボクを追い払うだろうか……それとも。
もう、賭けだった。
ボクは店のドアの前にちょこんと座り込み、もう一度、ありったけの声で鳴いてみた。
「ミャ……ァ」
か細い、情けない声。
でも、その声はちゃんとマスターの耳に届いたらしい。
彼は怪訝そうな顔でこちらを見ると、ゆっくりと立ち上がり、ドアの方へやってきた。
ガチャリ、と音がして、ドアが開く。
コーヒーの温かい香りが、雨の冷気と一緒にボクを包んだ。
マスターは、ずぶ濡れのボクを見て眉をひそめた。
「なんだ、お前……」
その声に、追い払われる前の最後の抵抗として、ボクはよろよろと彼のズボンの裾に体をこすりつけた。
ボロボロの毛並みで悪いけど、これがボクにできる、最大のアピールだった。
マスターは驚いたように動きを止めた。
そして、しゃがみ込むと、ボクの痩せこけた体をじっと見つめた。
その目に宿ったのは、面倒くさそうな色じゃなくて、戸惑いと、ほんの少しの同情みたいな色だった。
彼は何も言わずに店に戻り、すぐにお水の入った小さなお皿を持ってきてくれた。
ボクは夢中で飲んだ。
乾ききった喉を、命の水が潤していく。
飲み干すのを待って、マスターはまた店に戻り、今度はカリカリと音のする美味しいごはんをくれた。
袋には猫の絵が描いてある。
ボクは泣きたいくらい嬉しくて、脇目もふらずにそれに顔をうずめた。
お腹がいっぱいになると、急に猛烈な眠気が襲ってきた。
もう一歩も動けない。
ボクは、まるでずっと前からそうしていたみたいに、お客さん用のふかふかのソファに飛び乗り、くるりと丸くなった。
マスターは、そんなボクの姿を見て、呆れたように、でも少しだけおかしそうに笑った。
「おいおい、自分の家みたいにくつろぐなよ。
……まあ、雨がやむまでだ。飼い主が見つかるまで、だからな」
自分に言い聞かせるような、その呟きは不思議と優しく聞こえた。
ボクは、コーヒーの香りと雨音に包まれた温かい店の中で、もうどれくらいぶりかもわからない、安心しきった深い眠りに落ちていった。
ここが、ボクの新しい物語が始まる場所になるなんて、この時のボクは、まだ知らなかった。
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