第6話 欺く――陽動で盗賊を誘い、半包囲で勝ち切る夜明け前
作戦二日目。表向きは戦後処理、実際は第二段作戦の仕上げの日だ。砦の空気は雨の支度をしていて、朝靄の粒は昨日よりも重い。仮橋の縄は夜の湿りで太り、きしむ音が一段低くなっていた。私は点呼のあと、帳面に短く書く――〈本日:陽動・半包囲・罠板運用〉。インクが紙に沈む速度で、心を落ち着かせる。
リュシアンは会議室の窓を半分だけ開け、薄い雨の匂いを確かめてから言った。
「敵の指揮を切るには、虚を売れ。真実より先に、便利な誤解を置く」
彼の言葉は、釘より細い、しかし抜け落ちない。囮の隊商をもう一度走らせる。今度は敢えて護衛を厚く見せ、動線に“遅さ”を混ぜる。遅い隊商は狙いやすい――そう思わせる。橋側の足場には“罠板”を数枚混ぜる。踏めば一瞬だけ沈むが、落ちない。足を取られた瞬間に矢を集めるための装置だ。沈む時間は刃より鋭い。
「罠板は三箇所。印は板の節の数で。節が二つは“沈む”、三つは“踏むな”、一つは“目印だけ”」
職人の老人が、短く顎で合図を返す。彼の手は節ばって、しかし迷いがなく、印を刻む音は雨より小さいのに、骨に響く。私は板の裏に指を入れ、わずかな弾力を確認した。沈んでも折れない。折れなければ、恐怖は「落ちる恐怖」ではなく「止まる恐怖」に変わる。止まる恐怖は、指揮官の耳をいちばん早く刺す。
昼過ぎから小雨が落ち始めた。音は地面に吸われ、遠くの音も近くの音も、同じ湿った膜の内側に閉じ込められる。私は外套の襟を立て、弓隊の列の最後尾に立った。視察の体だが、見るのは地図ではなく、列の“緊張の波”。波は、肩の上下で見える。呼吸の速さ、掌の汗の光、矢羽を持つ指の節の固さ。波が揃っていれば、合図前に誰かが矢を放つことはない。
「合図まで待て。怖さは味方。矢は惜しむな」
私は一人ひとりの背中へ、短い言葉を置く。言葉は軽すぎてはいけない。軽い言葉は、雨に溶ける。重すぎてもいけない。重い言葉は、背骨を曲げる。必要なのは、背骨と同じ固さの言葉だ。彼らの首筋に、薄い火が灯る。火は見えない。だが、首の汗が、雨とは違う温度で現れる。
囮隊は日暮れ直前に出た。荷台には空の樽と、わざと見える位置に布をかぶせた箱。護衛はわざと見栄えよく、しかし足並みは半歩だけ遅く。遅い列は、狙いやすい。狙いやすさは、近道の呼び込みだ。近道は、罠の別名だ。私は仮橋の手前で隊の背中を見送り、橋板の節の数をもう一度だけ目でなぞった。二、三、一――順番は小さな呪文だ。
夜。霧の代わりに、しとしとと小雨。音は吸われ、角笛の練習音さえ、布に包まれたように丸くなる。私たちは樹の根元に背を付け、弓の弦を雨から守るために布で覆い、指で弦の感触を確かめる。指の節に雨がたまり、ぬるい。ぬるさは、集中を壊す。だから、息を数える。四で吸い、四で止め、四で吐く。呼吸が揃うと、波が整う。整った波は、合図の一声で矢に変わる。
盗賊は昨晩の敗北で慎重になっていた。先行の三名が草むらに這い、腹ばいで進む。慎重は、利口と愚かの境界だ。境界は、細い縄で切れる。草むらの位置にだけ、鳩尾の高さに細縄を張ってある。雨で濡れた縄は見えず、風で揺れない。先行の影がそこに触れた。体が一瞬浮く。人は、腹で支える動物ではない。浮いた腹は、重さの行き場を失い、肘が地面を探す。その一瞬で、狙いは「的」になる。
角笛が一度。短く、霧のない夜にでも届く太さで。矢の面が降りる。面――昨日は列で撃った。今日は面で落とす。面は、逃げ道の選び方を奪う。林縁の槍はまだ閉じない。閉じる直前、囮隊が踵を返し、仮橋側へ敵を集める。足音が橋の前で重なり、罠板が沈む。沈む音はしない。音がないのに、体が止まる。止まった時間は刃より鋭い。刃は皮膚の外を切るが、止まる時間は内側を切る。
「いまだ」
私は旗を斜めに振る。白い布が雨を弾き、半円の槍が閉じる。閉じる時、半歩だけ重ねる。重なりは、逃げ道の幅を削る。そして一本だけ、逃げ道を残す。残す道に、人は流れる。流れは袋の口で止まり、声が短く跳ねて消える。消えた声の先には、もはや抵抗の形はない。私は矢の第二波を控えさせ、腕の角度だけで「肩を狙え」と伝える。肩と腿。命より前に、動力を止める。
乱戦の渦で、私は自分に命じる。見誤るな。勝つことと、壊さないことは別だ。勝ち方を誤れば、兵は二度と立ち上がらない。負傷兵の搬送路は事前に空けてある。道の両脇に灯を低く置き、踏み越えるべき石に白い粉を薄く塗った。雨で流れそうな粉は、麻の汁で粘りを足しておいた。担架を運ぶ兵が足を取られず、悲鳴が連続しない。声は、連続すると人の心を割る。
仮橋の手前で、罠板に足を取られた盗賊の一団がもつれた。矢がそこで集まり、槍の縁がちょうど閉じる。囮隊の副長が、泥の上で短く合図を送る。私はそれに頷き、馬の位置を半身だけ寄せて、橋の縄に手を添えた。濡れた麻は、骨と同じ硬さで、私の掌に抵抗を返す。その抵抗が、体の震えを下げるのを知る。手を使うと、怖さは手の形になる。
敵の指揮官が逃走を図った。背を向ける角度が、一度で決まっている。経験の角度だ。私は追撃の旗を半分だけ上げる。リュシアンが横に来て、首を横に振る。彼は低く言った。
「帰らせろ。帰る背中は告げ口を運ぶ。恐怖は、敵の町で再分配される」
敵の背中が雨に小さくなっていく。背中が持ち帰るのは、刃の長さではなく、止まる時間の鋭さだ。止まる恐怖は、次の夜を遅らせる。遅れは、こちらの準備に変わる。
戦は、角が取れていくように終わった。刃の音は減り、泥の音が戻る。武器を捨てる音は点在し、縄の結び目が湿った手にきしんだ。私は勝鬨を禁じる。歓声は、温度を上げすぎる。熱はすぐに冷める。冷める前に、熱を器に移す必要がある。器は手続きだ。私は順番を声にする。
「捕虜の移送。負傷者の手当て。仮橋の補強。戦利品の点検。――午后、倉庫の棚卸し」
兵は頷き、列の向きを変える。列が動くと、勝利は足音の形になる。足音は夜のうちに消えない。明日の朝、また思い出しやすい。
押収品の中に、焼き印の薄い木箱があった。雨に濡れて輪郭は甘いが、火金の曲がり癖が、私には昨日の帳面の「商会印」と重なって見えた。焼きごては、曲がったままになる。印章は削られても、手の癖は削れない。私は手袋の指先で印をなぞり、リュシアンを呼ぶ。
「王都の商会の線だな」と彼は言った。「倉庫の鍵の刻み、代官の懐中鍵の古い型と一致する可能性が高い」
「紙より、行動記録を」と彼は続ける。「何時、誰が、どこで、どの扉を開けたか。見回りに“記録兵”を付け、二重の筆で書かせる」
二重の筆――筆跡は嘘を嫌う。二人の手が同じ時間を指せば、時間は紙の上に体温を持つ。私は記録札を二十枚作り、見回り班の腰紐に括りつけた。札には〈刻・場所・鍵〉の三項だけ。少ない項目は、埋まりやすい。埋まる紙は、明日、証拠になる。
深夜、私は医務室の隅で肩の打撲に湿布布を当てた。皮膚の熱はゆっくり引き、痛みは、働いた証の形に変わっていく。救助に入った右腕は重い。ひとりを救った。あの目に灯った驚きと羞恥と感謝は、忘れようがない。だが、指揮官が個々の救助に入れば、全体が鈍る危険がある。私はノートを開き、失敗の可能性を言語化する。〈救助の代替手順/救助班常設/指揮官は救助禁止〉。禁止は冷たい響きだが、冷たさは、熱を正しい器へ導く。自分の身体に刻まれた痛みを、次の秩序に変換する。それが、ここでの「悪役」の役割だ。嫌われる勇気は、時に“禁止”の形で立つ。
外の雨はいつの間にか止んでいた。砦の壁に水筋が残り、灯の明かりに薄く光る。記録兵が札を掲げ、刻を読み上げる声が遠くで重なった。声は、紙の別名。紙が読まれると、秩序が音になる。音は、眠る者の耳にも届く。眠っている間に、秩序は根を広げる。
短く眠って、夜明け。砦の空は洗い流されたように青い。川霧は薄く、仮橋の上で最初の小さな行列が動き始めた。籠にパンを入れた女たちが渡り、子どもがこちらに手を振る。兵の何人かはぎこちなく敬礼し、何人かは照れたように視線を逸らす。勝利の効能は軍事だけに止まらない。人は“通れること”を信じると、心も通し始める。渡れる橋の上では、言葉が短くても届く。戻れる道があると、約束の期限を守れる。
私は旗を見上げる。白地に一本の青い糸。風は弱いが、糸は震え、その震えが朝の光を拾う。糸は細い。細いが、昨日より確かだ。私的な紋章は、私的であることをやめつつある。見上げる顔の数が増えるほど、私の個人の印は、ここでの共通の目印へ変わる。印は、物語の結び目になる。結び目に指をかけやすいほど、人はそこへ集まる。
午前のうちに、押収品の一覧を作った。矢束上等二、下等五、短剣六、弓四、焼印箱三。箱の内側の木肌に、紙片の貼り跡があった。紙片は剝がされているが、膠の痕が指に引っかかる。剝がし方の癖で、誰の手かはわからない。だが、剝がした「意志」は見える。意志は、紙より濃い証拠だ。私は一覧の端に小さく書く――〈剝がされた痕=意志の痕〉。
昼、記録兵が札を抱えて戻った。筆跡は二つずつ。刻・場所・鍵。倉庫の北扉、三更二刻、代官同道。見回りの刻に代官が動く必要はない。必要のない動きは、意図の別名だ。私は札を並べ、重なる刻を紐で結んだ。線は薄いが、昨日より確かに太くなっていく。線が太くなると、名前は自然に紙に滲む。滲む前に、私は言葉の順番を整える必要がある。
午後、私は広場で短く告げた。
「本日の棚卸しは、見回り記録と照合して行う。声に出して読み、二重に書く。鍵の出入りは札に記す。紙を怖れず、声を恐れず」
人は触れるものを信用する。紙も札も、触れるためにここにある。代官は広場の端に立ち、肩の筋肉で表情を固めていた。彼の目は昨日よりも静かだ。静けさは、次の音の準備になる。音が出る瞬間を、私は逃がさない。
棚卸しの前に、私は医務室を回った。救助班を組み替え、指揮官の救助禁止を壁に貼る。字は丁寧に、しかし装飾しない。装飾は、痛みを曖昧にする。貼り終えてから、私は自分の肩に手を置いた。痛みは朝より薄い。薄くなった痛みは、油断を誘う。誘いに乗らないように、紙へと痛みを移す。紙に移すと、体は少しだけ自由になる。
仮橋では、若者が楔を締め直していた。罠板は三枚とも回収され、節の印は削られた。作戦の痕は、生活の場に残しすぎてはいけない。残るべき痕は、記憶のほうだ。私は板の上を歩き、足裏で橋の呼吸を確かめる。呼吸は昨日より浅い。浅い呼吸は、安定の兆候だ。深い呼吸は、まだ揺れているものの合図だ。
夕方。雨は完全に上がり、空は薄く光の層を重ねた。私は塔の踊り場で、旗の糸を指でなぞった。青は冷たい色だが、指先に触れると、なぜか温かく感じる。温かく感じるのは、私がここにいるからだ。旗は布でしかない。布を旗にするのは、人の目だ。目の数が布を紋章に変える。紋章が物語を持つ。物語は、日付を刻む。
夜の前、リュシアンが踊り場に上がってきた。外套の裾から雨の匂いが抜け、代わりに墨の匂いがする。彼は手に数枚の札を持っていた。
「行動記録、二重筆。刻の重なりは、倉庫北扉で三度。商会箱の焼印は、工房の癖でほぼ確定だ。明日、商人の名を紙に載せる。列を作る。列は辿れる」
「列の先に、代官」
「その先に、王都」
彼は旗を見上げ、余計なことは言わなかった。余計な言葉は、旗を重くする。重くなった旗は、風で折れる。私は小さく笑い、今日の最初の鐘を思い出した。鐘は三度鳴り、配給の列が短く揃った。列が揃うと、声が短く済む。短く済む声が、夜を早く連れてくる。夜が早ければ、明日が早い。
帳場で、私は本日の記録を締める。〈陽動成功/半包囲完遂/死者なし、重傷一/押収:商会箱三、矢束七、武具十〉。〈記録兵運用開始:札二十/重なり:倉庫北扉・三更二刻〉。〈救助班常設、指揮官救助禁止〉。行の間に、小さく一行添えた。
――止まった一秒が、刃に勝つ。止まる時間を作り、止まる時間で勝つ。
灯を落とす前、私はもう一度だけ外へ出る。空は澄み、星は少ないが、冷たい。井戸の水面は、朝と違って黒い鏡になっている。鏡のなかに、旗が細く揺れて映る。私はその揺れを見届け、胸の奥で静かに言い直した。
――私は、私の国を作る。欺きは破壊のためでなく、守るために使う。勝ちは熱でなく、手続きで受け取る。
眠りは浅く、しかし必要な分だけ降りてきた。夜明け、最初の小さな行列が仮橋を渡る。子どもが手を振り、女たちの籠からパンの匂いがこぼれる。兵の敬礼は相変わらずぎこちないが、そのぎこちなさは、新しい約束の初期不良みたいで、私は嫌いではない。通れることを人が信じると、心も通る。通った心の数は、紙で数えられる。紙で数えられるものは、明日も続けられる。
私は青い糸をもう一度見上げる。細い線は、汚れても、そこにある。汚れが線を濃くする日もある。濃くなった線は、雨でも消えない。今日の雨は、もう止んでいる。止んだ雨の路面に、薄い光が広がる。光の上を、足音が渡っていく。その足音を数えること――それが、いま私にできるいちばん確かな仕事だ。
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