第5話 挑む――盗賊の初陣で、辺境の旗を掲げる
夜明け前。川霧は、誰かが布を川面に幾重にも掛けたみたいに白く折り重なっていた。湿りは鎧の内側に潜り込み、皮紐の継ぎ目を重くした。仮橋の縄がきしむ。音は細いのに、心臓の鼓動と重なると大きく感じられる。私は視察名目で前線にいる。囮隊の背後、川に背を向ける位置。靴底の泥は冷たく、指先は緊張でわずかに震える。それでも視線は澄んでいた。澄みは、恐れと矛盾しない。むしろ、恐れの輪郭をくっきりさせる。
「霧が晴れる一瞬が合図だ」
リュシアンが短く言って、闇のほうへ溶けた。彼の言葉は、必要最小限の釘だ。板を支える分だけ打って、飾り釘は打たない。作戦は二段。第一――偽の物資搬送を装った囮で、盗賊を開け地へ誘う。第二――仮橋側に潜む弓隊と、対岸の林縁に半円を描く槍隊で挟撃する。合図は角笛二声。二声は、戻る余地を残しにくい音だ。
霧の壁の向こうで、鳥が一斉に立ち上がる。羽音は、弱い雨の音に似ている。小石が転がる。草が押し分けられる湿った音。私は息を少しだけ浅くした。弓十、刃十――斥候が数えた通り。だが、胸の警鐘が消えない。影は均一ではない。濃い影と薄い影の密度が、数える指の間からこぼれる。数えた“影”が多い。草むらの奥に伏兵がいる。私は囮隊の副長に密命を送る。距離を半歩長く取ること。矢の初撃は捨てて、合図の前に斜角に走ること。囮の走路がわずかに変わるだけで、追う側の足は躓く。
角笛が鳴った。霧に押し返されるように二度。仮橋側から矢の雨が走り、盗賊の先頭が前のめりに崩れた。矢が刺さる音は、木に打つ釘に似ている。林縁から槍の穂先が半円に躍り出る。円は完全ではない。逃げ道を一本だけ残し、そこに袋の口を用意する。指揮官らしき男が怒号とともに突進してくる。その眼が、一瞬だけ藪の奥を振り返った。伏兵――やはり。私は予備の小隊を「見せた」。出さない。見せるだけ。伏兵は“別の伏兵”を恐れる。恐れは遅れを生み、遅れは利息をつけて隊列を崩す。
「仮橋を死守! 川に落ちた者を引き上げよ!」
私は馬上で叫ぶ。橋は生命線だ。ここで乱れれば、すべてが瓦解する。濡れた板に足を取られ、兵のひとりが体を傾けた。手綱が水に飲まれかける。私は身を乗り出し、彼の腕を掴んだ。甲冑がきしみ、肩に鋭い痛みが走る。痛みは、現実の印紙だ。彼の体が戻る。救われた兵の目に、驚きと羞恥と感謝がいっぺんに灯った。灯りには順番があるのだと、その時知る。まず驚き、ついで羞恥、最後に感謝。順番を覚えると、次の声のかけ方が定まる。
囮隊が斜角に走ったことで、盗賊の突進は僅かに乱れた。弓の第二波が落ち、半円の槍が縮む。矢は頭を狙わない。肩、腿、腕――働きを奪う場所を狙う。血の匂いは霧に薄められ、足元の泥に混ざる。泥は、すべてを同じ色にする。私は泥を見下ろし、色の中から形だけで味方と敵を見分ける。形を学ぶことは、残酷から目を逸らすことではない。残酷に呑まれず、仕事を続ける術だ。
指揮官の男は、乱れながらも巧かった。隊列の切れ目に身を入れ、狭い隙間を刃で広げようとする。彼の刃は軽い。軽さは、街で鍛えられた証だ。野の刃は重く鈍い。私はその軽さに、ここがただの野盗ではない証拠を見る。彼の視線がまた藪の奥をかすめる。伏兵はまだ動かない。動かないという動きが、こちらの計算を助ける。
「右半円、半歩だけ前へ」
私は合図の旗を斜めに振った。白の旗が霧に溶けず、空気を切る。半歩――半歩は、体勢を崩さずに圧をかける単位だ。槍の先がわずかに重なり、逃げ道がさらに細くなる。細い道に人は集まる。集中は、こちらの意志の証になる。
仮橋の縄がまた軋んだ。水は絶え間ない。絶え間ないものに、私たちは一時しか勝てない。それでも勝つ一時を戦の形にする。私は橋の中央に立つ兵へ、目で合図を送った。手のひら――開く。閉じる。開く。流れに合わせて呼吸するように、兵が縄を締め直す。締め過ぎず、緩め過ぎず。木は呼吸する。呼吸のあるものは、押しつけで折れる。
半包囲の輪が固まると、逃げ道に向かう影が増えた。増えるほど遅くなる。袋の口の前に、弓の第三波を置く。矢羽は湿りを帯びているのに、よく飛んだ。矢の束は上等だ。私は矢の根元に見慣れぬ仕上げを見つける。王都でしか手に入らない細工。ふ、と胸の中でリュシアンの声がした気がした。彼は戦場の一点を射る目を持っている。
「油断するな、背後の買い手がいる」
勝鬨を禁じる。歓声は、戦を終えない。余韻の熱を手続きに繋げるのが、統治の勘だ。私は馬を返し、仮橋の上をゆっくり渡る。板が緩むところでわざと目をやり、兵に指で二を示す。二――二箇所。二人で締め直し。指示の単位を小さくして、責任の持ち場を明確にする。
森の縁で、伏兵らしき影が一瞬だけ揺れた。私は予備隊の位置を、もう一度「見せ」る。出さない。見せるだけ。影は引いた。引くときの空気は、押すときのそれより薄い。薄さは、終わりの予感を運ぶ。
やがて武器を捨てる音が点在しはじめた。刃が泥に落ち、木の柄が水を含む。降伏の声は小さい。小ささは、恥ではない。生き延びる選択の遠慮だ。私は頷き、視線で縛の合図を送る。縄は固すぎない。血の色は広がる。広がる色に、人の命が含まれている。含みを雑に扱うのは、悪役の役目ではない。
リュシアンが背後に来た。彼の外套は露で濃くなっている。顔は相変わらず、感情の出入りを抑制していた。
「矢羽を見ろ」
私は拾い上げ、根元の仕上げを指でなぞる。王都の工房で使われる結び。辺境の市ではまず手に入らない。
「買い手がいる。倉庫の鍵、橋の見取り図、見回りの刻――誰かが渡している」
「午後、棚卸しを行うわ」
言いながら、拘束した盗賊のひとりの目を見た。若い。泥で頬は汚れているが、刃の持ち方が街のそれだった。彼は口を堅く閉ざしている。だが、沈黙にも密度がある。
「代官の名だろう?」
リュシアンが淡々と問う。青年は目を逸らし、唇を噛んだ。「荷の鍵」「橋の見取り図」「夜の見回り時刻」――彼が吐く言葉は間接話法で、しかし倉庫の内側からしか出てこない密度を持っていた。直接の名は出ない。それでも、線は繋がる。繋がる線が増えれば、名はあとから紙に自ら滲む。
私は勝利の熱を封じるために、順番を声にした。捕虜の移送。負傷者の手当て。仮橋の補強。戦利品の点検。そして――「午後、倉庫の棚卸しを行います」広場で宣言する。人は触れるものを信用する。棚卸しは、触れる式典だ。
兵の中に小さな高揚が走る。勝鬨ではない。息の揃い方が、朝よりも少しだけきれいだ。私は「恐れ」の言い換えを探し、見つけた言葉を並べる。
「私は悪役令嬢だ」
静かに言う。ざわめきが小さく渦を巻く。
「怠惰と腐敗の敵として、恐れられるべき悪役である」
歓声と戸惑いが混ざる。混ざり合った色は、まだ濁ってはいない。私は続けた。
「恐れるな。恐れは、規律と公正の別名にする」
言葉を二文で止める。三文にすると、熱が冷める前に意味が増えすぎて、手に余る。二文は、噂になる。噂は、翌日の行動を揃える“物語”になる。
午後。霧は上がり、川はふつうの水になった。仮橋は、朝より静かにきしむ。私は医務室を回り、包帯の交換を手伝う。血はすぐに乾かない。乾かないものを乾かそうと焦ると、皮膚が一緒に剝がれる。焦りは、善意の暴力だ。私は手を湯で温め、指先の温度を皮膚に移す。体温は、言葉より先に痛みを落ち着かせる。
倉庫の前には、鍵束を持った代官が立っていた。朝の笑みはない。顔は沈んで、皮膚の下で何かが硬くなっている。私は鍵を受け取り、印を押した。紙は粗い。粗い紙は、インクをよく飲む。飲んだインクの形は、手の迷いも飲み込む。
棚卸しは儀式の顔をしているが、実務だ。樽を数え、印字を読み、粉袋の紐の色を照らし合わせる。出納の刻と川の水位の記録。雨の夜に搬入はない。搬入の印があるなら、嘘か、別の“搬入”だ。私は数字を声に出して読み、女房に復唱させる。声は、紙の別名だ。紙を怖がる人にも、声なら届く。
「塩の樽、四つ分の齟齬」
私は指で埃を撫でる。動いた箱と、動いていない箱で、指に残る埃の厚みが違う。違いは、言葉にならない説得力を持つ。
「粉袋――印と紐が混在。日付は、川が増水した夜に搬入」
代官の肩が、ほんのわずかに動く。鍵が彼の手の中で鳴った。金属音は小さく、それでも倉庫全体に響いた。響きは、人の気配を集める。集まった気配は、圧になる。圧は自白を生まないが、選択を狭める。
「説明を」
リュシアンの声は低い。刃ではなく秤の声。代官は、商人のせいにしかけて、言葉を飲んだ。商人は呼べる。靴底の泥の色でわかる。川の泥は、日にちごとに色が違う。違いは、足跡に残る。足跡は、紙よりも正直だ。
私は人の視線が私に集まっていることを意識した。視線は重い。重さは、象徴の代償だ。重さを受け止めるために、私は机の上に旗を置いた。白地に一本の青い糸。私的な紋章。意味は簡単で、用心深い。「汚れを恐れず、一本の線を通す」。線は、理想の別名だ。理想は、泥のなかの線でしか信じられない。
夕刻。砦の塔に、新しい旗が上がった。風は弱く、布は大きくは翻らない。けれど、青い糸は見えた。細い糸は、空の白に溶けず、一本の筋でそこにいた。兵と村人が見上げる。誰かがひそひそと、子どもに説明をしている。「線だよ」「汚れても、線は残るんだって」。説明は伝言で良い。正確さより、温度が残る。
私は石段に腰を下ろし、肩の痛みを確かめた。痛みは朝より深く、しかし落ち着いている。落ち着いた痛みは、馴染む可能性がある。馴染ませてはいけない痛みもあるが、今日のこれは許す。許しは、継続の燃料だ。
夜。帳面を開く。今日の数を並べる。捕虜十七。負傷者軽傷十四、重傷二。仮橋、締め直し箇所三。戦利品――矢束上等二、下等五、短剣六、弓四。倉庫齟齬――塩樽四、粉袋五。代官聴取――保留。鐘――配給三打、見回り二打。旗――掲揚。数は冷たい。冷たさは、熱を保存する器だ。器があるから、熱は翌日まで持ち越される。
窓の外には、夜の色が戻った。川霧はない。星がいくつか、ところどころに浮かんでいる。星は遠い。遠いものに、私は救いを頼まない。手の届くものに頼る。手の届くものは、手で壊さない限り、裏切らない。
「初陣は、成功だ」
リュシアンが、敷居の外で言う。彼は部屋に入らない。敷居は、役割の境界だからだ。
「だが、敵は盗賊だけではない」
「知ってるわ」
私は旗に目をやる。青い線は、夜の濃いところでも細く見えた。
「だから、旗を立てた。物語が必要よ。人は物語に従って動く」
彼は短くうなずく。「明日、商人たちの名を紙に載せる。王都の工房の結びを使う者の名。列を作る。列は辿れる」
「列の先に、代官がいる」
「列のさらに先に、王都がいる」
沈黙が、二つ分。二つ分の沈黙は、怖さと期待の間に敷く畳だ。私はペン先をインクに浸し、紙の余白に一文を書く。
――辺境の旗、掲げる。恐れの名を規律に言い換え、熱を手続きに繋げる。悪役は、怠惰と腐敗の敵。
ペンを置く。肩の痛みが、息を吸うたびに弱くなる。弱くなるのは、安心の兆候だ。私は灯を落とし、目を閉じた。耳の奥で、朝の角笛がまだ薄く鳴っている。二声。二声は、戦の始まりと終わりを短い糸で結ぶ。糸は、空へ伸びる必要はない。地面に沿って伸びればいい。泥の上に一本の線。汚れても、そこにある。
夜明け前、また川霧が上がるだろう。仮橋は軋み、縄は湿る。けれど、今日より一本多く楔が打たれる。今日より一人多く、旗の意味を説明できる子が増える。明日、私はまた点呼台に立つ。名を呼び、返事を数える。その数が、国の輪郭を少しだけ濃くする。私は胸の奥で短く誓いを新しくし、眠りに身を預けた。旗は外で静かに、しかし確かに、夜風に揺れていた。
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