第4話 整える――怠惰な兵と荒廃の砦を立て直す
朝は、砦の石に薄い牛乳を流したように白かった。冷えは深くはないが、指の関節を一度握り直さないと、筆も剣も取り落としそうになる程度には残っている。私は点呼台に立ち、木札を一枚ずつめくる。名と印、欠員、遅刻、装備不備。問題の羅列は、逆にやるべき順番を教えてくれる。
「本日、規律と報酬を同時に運用します」
声を張る前に、足の裏で土の具合を確かめる。ぬかるみは昨日より浅い。仮橋へ材が運ばれて、車輪が通るたびに泥の水気が捌けているのだ。
「違反には罰、達成には配給上積み。家族持ちには温食優先。病者には免除。――罰だけでは恨みを、報酬だけでは怠けを育てます。両輪で、進む」
ざわめき。兵の列はまっすぐではない。肩が少しずつ重なったり、離れたりして、風の通り道みたいに隙間が動く。ひとりが前に出て、唇の端で笑った。
「王都に捨てられた俺たちに、偉そうに命令するなよ。悪役令嬢さま」
声はくぐもっていない。眠気の膜が剝がれたばかりの生の声音。私は一歩も退かなかった。退く姿勢は、石より先に記憶に残る。
「ならば、私の“悪役”を恐れなさい」
わざと、言葉を硬くする。仮面は、磨くほど光る。
「怠惰を切り捨て、働く者に報いる。それが、ここで私が演じる役です」
挑発の線を引いたつもりはない。線はもともとここにあって、ただ白い粉でなぞり直しただけ。人は線が見えると、越えるか守るかを自分で選べる。その選択に、責任という体温が戻る。
私は掲げた木板に、今日の基準を箇条書きにしていく。①服装と装備の最低基準――革紐の補修、刃の錆落とし、弦の張り替え。②衛生と医療――手洗いを三度、寝具の交換は週二、傷は医務室に申告。③訓練の計画化――基礎体力(行軍・持久・障害)、武具操作(弓・槍・短剣)、集団行動(隊列・合図)。④士気の可視化――鐘と札で“今”を示し、今日の達成者を掲示。
掲示板に釘を打つ音は、会議より雄弁だ。音は人の骨に届く。ひとりの若い兵が無意識に踵を揃えた。昨日見たあの小さな動作――点はまたひとつ増える。
午前、訓練を三段に割って回す。行軍の列はまだ蛇のように揺れるが、蛇も骨がある。歩幅を合わせ、腕を振る角度を限定するだけで、体の迷いは減った。私は先頭と最後尾の両方に立ち、列の長さと息の合い方を交互に測る。基礎の次は武具。弓の弦は古いものをまとめて張り替えさせ、槍は柄の節を磨かせる。短剣は腰の高さで抜き、戻す。十回。二十回。三十回。回数は魔法だ。数を経ると、手が考えずに正しい場所へ帰る。
公開評価は、紙に書くだけでなく声で言う。恥は抑止に、誇りは推進に効く。だが刃は両刃だから、失敗へは即日再挑戦をつける。「弦の返りが遅い、もう一回」「槍の踵が流れてる、石一つ分手前で止める」「短剣の刃は、抜いたときに光らせない」――成功の条件は具体に。抽象は、責める時にだけ使っていい言葉ではない。直すために使えなければ、言葉は棘だ。
端でリュシアンが見守る。彼は時折だけ短く指導して、去る。軍師は神話であるべきだ。頻出すれば神話性は落ちる。彼はそれを知っている。姿が見えなくなると、兵の間に小さなざわめきが残り、ざわめきはやがて期待に形を変える。期待は、体温の上がる方向へ人を押す。
訓練の合間、私は炊事場へ行く。洗い桶に灰を混ぜ、油の皿に指で円を描く。皿はすぐにきゅ、と鳴って、油の膜が剝がれる。鍋の縁は焦げ付きを削りすぎない。鉄の“黒”は守る。黒は味を覚えているからだ。寝具は藁束の湿りを裏返し、日向を少しずつずらす。井戸に藻が薄くついているのを見て、紐を巻き直し、滑車の軋みへ脂を足す。医務室では包帯を糸の向きで分け、煎剤の瓶に日付を貼る。香草は摘むときに香りを逃がさないよう指の腹で折る。生活の手入れは、戦の前にある“平時”の素描だ。平時を整える者だけが、戦を短くできる。
「悪役令嬢は泥を嫌うと思われているけれど」
棚を運び終えて、額の髪を指で払う。汗はしょっぱい。しょっぱさは、作業が体のものになっていく味だ。
「泥ほど、約束を果たす場所はないわ」
近くでその言葉を聞いた女房が、わずかに笑って会釈をした。笑いは薄く、だが温かい。笑いは伝染する。罵倒よりも静かに、長く。
正午前。訓練の第二段が終わり、第三段の集団行動に移る。合図の旗は赤と白を一本ずつ。赤は進め、白は止まれ。隊列は三列から二列に絞ると、横の視線が合いやすい。人は、横を見ると安心する。安心は、前に進む手を軽くする。私は列の間に入って、足と足の間隔を言葉ではなく手の示指で示す。指の幅は、兵にとってわかりやすい尺度だ。
広場の隅、仮橋に使う材が積まれていく。木材は近隣の職人から買い付け、釘と縄は砦で融通。川は雪解けの名残で速い。足を滑らせれば、そのまま岸の見えない方へ運ばれてしまう。私は夕刻の架設に備えて、柱の角度と支えの間隔を確かめる。縄は締め、だが締めすぎない。木は呼吸をする。呼吸のあるものを押さえつけると、折れる。
「専門家に任せろよ」という声が背中に落ちた。言い方は責めていない。むしろ、心配の色が濃い。
「任せますよ」と私は振り返る。「でも、見る。見て、理解して、任せる。わかる範囲を広げるほど、命令は具体になって、現場は安心する」
頷きがひとつ、ふたつ。現場の安心は、命令の精度で生まれる。命令の精度は、理解の面積で広がる。面積は、一歩ずつ歩いてしか増えない。
午後、公開評価の板に、達成者の名を刻む。木に刻む音は固く、名前はそこで小さな家を持つ。名前の家は、次の日の朝にもそこにある。朝、居場所がある人は、少しだけまっすぐに立つ。恥の名も並ぶ。だが、恥には再挑戦の印をつける。失敗の横に、矢印。矢印の先に、空白。空白は、埋められるためにある。
夕方。川の流れがいちばん冷たく見える刻に、仮橋の架設が始まる。職人の老人が柱の脚を水に入れ、若者が縄を引く。私は足場の端に立ち、風向きと水の筋を読む。川は見た目ほど気まぐれではない。流れは、石の癖と土の記憶に従って曲がる。私は柱の影がどこで揺れるかを見て、角度の微調整を提案する。老人は一度だけじろりと私を見、指で短く合図をくれた。承認の合図は、言葉より照れくさい。照れくささは、信頼の弟だ。
「そこの楔、半分だけ打って。夜に湿る。明朝、締め直す」
私が言うと、若者が「了解」と返した。返事の声は、朝より高い。疲れの高さではなく、集中の高さ。
薄明かりが川面の縁に溜まりはじめた頃、代官が現れた。護衛を従え、笑みを貼りつけている。笑みは重ね塗りされた絵の具みたいに厚く、表情の筋肉と喧嘩していた。
「迅速なご対応に感服。ところで――倉庫の鍵は伝統的に代官が管理する決まりでして」
決まり、という言葉は便利だ。責任の顔をして、責任から離れる。私は微笑みを崩さない。
「伝統は尊いですが、飢えは一日も待ちません。配給を公正にするため、在庫の棚卸しは明朝に行います。鍵は今夜、お預かりします」
代官の笑みが、一瞬だけ生の表情に戻り、そして固まった。護衛が反射で半歩前に出る。音は立っていないが、足の砂が鳴った。リュシアンが横で静かに立ち、無言の圧をかける。圧は、重さではなく“計算可能”という空気で生まれる。彼がいると、誰もが自分の次の手を見せたくなくなる。見せたくない時、人は動きを止める。止まれば、こちらが選べる。
「明朝、棚卸しの際には代官殿にも立ち会っていただきます」と私は続ける。「帳簿は双方で確認しましょう。紙と印を、同じ光で見るために」
代官は頷いた。頷き方は、首ではなく肩で。承服ではないが、拒絶でもない。鍵束が私の掌に重みを渡した。金属は冷たい。冷たさは、安心の祖先だ。
夜。帳場の灯を低くし、数字を並べる。訓練完遂者二十七名、仮橋進捗は四割、衛生改善項目は七。井戸の水位は、朝より指二本分上がった。見回りの間隔は半刻短縮。医務室の寝具は十枚交換。士気は上向き、抵抗は点在。斥候からの報告は明朝。紙の上の線は冷たいが、そこには確かに生が宿っている。数字は、嘘を嫌う。嘘の嫌いなものは、味方だ。
「やりすぎれば、反発は面で返る」
扉の外から、リュシアンが言った。彼は部屋には入らない。敷居の外で立ち、敷居の役割を守る。
「足りなければ、怠惰は点で増える。今日は、ちょうどいい」
「明日、ちょうど良くなくなるかもしれない」
「だから、明日も測る」
会話は短く、余白は長い。余白は“信じている”と“疑っている”の間に敷く畳だ。どちらに体重を移しても、足の裏が驚かない。
帳面の余白に、私は小さく書き足す。〈悪役令嬢という仮面――恐れの契約、秩序の担保。演目に見せ、実務で裏打ち〉。仮面は、役割の単位だ。役割は、責任の言い換えだ。責任は、誰かの不安を預かること。預かった不安を数に変え、数を決定に変え、決定を生活に戻す。戻す――今日という一日の多くは、それだけで埋まる。
窓の外、星は少ない。雲ではなく、薄い霧が空を擦っている。風は冷たい。灯を落とす直前、私は自分に問い直す。
――私は復讐のためだけに整えているのではない?
答えは、まだ曖昧だ。曖昧さは、逃げ道にも、余白にもなる。私は余白として抱えることにした。整うという事実が、次の一手を呼び込む。人は、整えられた場所でだけ、勇気を払える。
短く眠る前に、明け方の支度を確認する。視察――囮の代わりの目。背丘に上がる靴、薄い外套、湿りに強い布、麻の紐。視察で見るのは、敵の数ではなく、土の機嫌、風の背、夜を割る前の静けさ。静けさの密度で、成功の音が決まる。
灯を落とした部屋に、墨の匂いと微かな灰の温度が残る。私の手はまだ少し泥の匂いがして、爪の脇の黒はすべては落ちない。完全に落とさないと決める。泥は約束の証拠だ。
眠りは浅く、しかし必要なだけ降りた。夢の中で私は、仮橋の板の上を裸足で渡る。板は冷たいが、足裏を押し返さない。夜明けが来る。鐘はまだ鳴らない。鳥が先に鳴く。私は目を開けて、起き上がる。外は青く、井戸の水面は鏡のように固い。空が一段薄くなり、川霧が白い息のように流れる。
点呼台にもう一度立つ。名前を呼ぶ。返事が返る。返事の数が、国の輪郭になる。輪郭は、今日も少しだけ濃くなった。私は胸に手を当て、深く息を吸う。吸い込んだ空気が冷たく、鼻の奥がきゅうと痛む。痛みは、生きている部位の合図だ。
「本日、仮橋の締め直し。訓練は第二段を中心に。午後、棚卸し。――鐘の刻は板に記す。札は子どもに読み上げさせる」
言葉は、石の上を滑っていく。滑るが、消えない。私は列を見渡し、昨晩名前の家を得た者の顔を見る。家は、顔に影をつくる。影は、存在の証拠だ。
砦の外側で、牛が低く鳴き、婦人の笑い声が短く重なる。生活の音が、戦の計画の外枠を満たしていく。私は点呼台を降り、手袋を嵌める。手袋は新しくはないが、縫い目は強い。強さは、新しさの逆立面ではない。直され続けたものが強い。私は自分の役――悪役――を指で押さえる。仮面の下の顔は、もう少しだけ、明るい場所で使う予定がある。
代官の鍵は、私の机の上で静かに重い。重さは、私にとって責任の具体だ。棚卸しの紙を束ね、印を準備する。リュシアンが静かに現れて、机の端に触れる。巻物が捲れないように。風はまだ、会議室を通り抜けるのが好きらしい。
「今日の反発は、昨日より一つ増える」と彼は言った。
「昨日より、賛同も一つ増える」
「なら、ちょうどいい」
彼は薄く笑う。笑いは節約されている。節約の先に投じる場所があるのだろう。私は頷き、外套の襟を正した。
――整える。怠惰な兵と荒廃の砦を、立て直す。整えることは、戦うことの最初の形。戦いは、相手より先に、自分の歩幅と約束を整えるところから始まる。私は台から降りる一歩を、昨日より半分だけ深く踏みしめた。半分でいい。半分ずつで、国は起き上がる。
Is this conversation helpful so far?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます