第5話
辺り一面の深緑が風にそよいで歌っているようで、蝉たちの大合唱がそこに加わり、生命の謳歌する様をまざまざと見せつけられているような気がしたが、あるいは夏の終わりに滅びゆくものたちの絶叫にも聞こえた。
「そろそろだよ」と唐突にその人は言った。数分かけて山林を掻き分けていくと、小さな山小屋が姿を現した。一瞬廃屋のようにも感じられたが、かえってその退廃的なニュアンスが日差しに照らされて輝いてみえた。
「ここが私のお家です。上がって!」
「お、お邪魔します……」僕は緊張で萎縮しながら履き物を揃えて上がった。
「あ、緊張してる?」その人は意地悪そうにニヤニヤと笑っている。
「そんな事ないですよ」僕は気丈に振る舞おうと努めていた。
「大丈夫だって、親御さんにも話通してるし。もしかして何か意地悪されるとか思ってる?」と揶揄うように聞いてきた。
「流石にそんなことは心配してませんけど……」でもさっき会ったばかりなのに……。
「まだ名前も言ってないのに、親に話してるのはちょっと意外でした」
「あはは、こんな田舎で東京から来たっていったら君くらいなもんでしょ。ウチの子供が世話になるかもしれないからよろしくって予め言われてたんだよね。ほら、この村に君と歳が近い人なんて私くらいだし」
確かにここ数日でこの人以外に若い人を見かけた記憶はない。それに事実こうやって二人で遊んでいる訳だから、歳の近いものに世話を任せるのもよくある事なのかもしれない。
「って、自己紹介がまだだったっけ。こっちは君の事を知ってたから、その辺すっかり忘れててごめんね。私の名前はカオル。よろしくね」カオルさんはウインクをした。
「僕の名前は春です……もうご存知のようでしたが」
少し頬を膨らませて拗ねたような態度をとってしまったが、カオルさんは気にしていないようだった。
「ハルくんね!いい名前だね、どんな字を書くの?」
「季節の、春」
さすがに漢字までは知らなかったようだ。
「へー!春くんね、素敵な名前ね!やっぱり
都会の人はおしゃれなんだね」
「そんなことないよ。カオルさんの字はどう書くの?」
そう尋ねると、カオルさんは紙に自分の名前を書き始めた。
「薫よ。いい匂いって意味だけど、漢字はこう書くの。安藤薫、覚えてね」
そう言われて、部屋にいい匂いが漂っている事に気がついた。それだけではない、距離が近いのだ。薫さんを間近にして、今までに嗅いだことのない匂いがする事に驚いてつい距離をとってしまった。薫さんは慌てふためく僕を見てまたニヤニヤと笑っていた。
だが一度鼻にこびり付いた異性の匂いはそうそう簡単に離れてはくれなかった。ココナッツのような、アーモンドのような、夏らしさの溢れる匂いでありながら、天上のものを思わせるような柔らかで気品のある匂いで、不思議なことに汗の匂いと混ざっても嫌な感じにはならずに、かえって魅惑的になり、薫さんの独特な魅力を表現していた。
その匂いは決して強いものではなかったが、僕の本質を捉えたように鼻にこびり付いて、くらくらと目眩を起こさせた。
「あ、大丈夫!?夏バテ?脱水症状ってやつだったりする?いまお水持ってくるからね」
素早く流し場から水を持ってきて僕に飲ませてくれた。
「もう大丈夫です……ありがとうございます……けほっ」急いで水を飲んだので少し咽せた。
「もー心配したよー。大丈夫?救急車とか呼ぶことになったら大変だからね」
「さすがにこんな山奥に救急車は来れないですよね」
「それどころか電話もなかったりして」
「そんな」
いくらなんでもそれは予想していなかった。
「でも大丈夫だよ。携帯は使えるから。電話代が勿体ないから滅多に使わないけど。先月もつい友達と喋り過ぎちゃって、結構高い支払いになったんだよね」薫さんはため息をついて肩を落とした。
「携帯は使えるんですね、少し安心しました。でも出来るだけ携帯電話を使わなくて済むように気をつけます」
それに親とは話を通しているようだし、わざわざ連絡を入れなくても良さそうだ。とはいっても……こんな辺鄙な場所に住んでいる薫さんのことを改めて変わっていると思わざるを得なかった。
「あー、人を変なものでも見るような目で見てる」
薫さんは大袈裟に項垂れてみせた。
「そんなこと……ないわけじゃないですけど」つい口籠もり気味になってしまった。「でも実際辺鄙な場所に住んでるなとは思いますよ。まるで……」
「まるで?」
薫さんは首を傾げて続きを促す。
「……幽霊みたい」
どうしてそう思ったのかは分からないが、率直に思ったことを口にしてみた。
「そんな、幽霊だなんて失礼だよ」
薫さんは衝撃を受けたようだ。
「ごめんなさい……」
実際失礼なのはその通りなので素直に謝る。
「ていうか春くんはまだ幽霊なんて信じてるの?」
薫さんは揶揄うようにそう尋ねる。
「べ、べつに信じてるって訳ではないですけれど、こんな所に住んでるなんて少し変だなって思っただけです」
「それは確かにその通りかもね。でもそれには色々な大人の事情があるわけよ。子供には話せないあんな事や、こんな事が!」
そう言って薫さんは僕の脇腹をくすぐってきた。いきなり触られた事にびっくりしつつも、少しドギマギした。だがそれ以上にあまりのくすぐったさにそれ所ではなかった。
「や、や、やめてください!お願いします!」
そうお願いするとあっさりと薫さんは悪戯をやめてくれたが、まだ顔だけはいたずらっ子のようにニヤニヤとしていた。
「でも実際、もしも私がお化けだったらさ、この後君はどうなっちゃうんだろうね?」
少しどきっとさせられる問いだった。
「どこかに攫われてしまったりとかですか?」
恐る恐る、そう答えた。
「なに?私と一生一緒に居たいってこと?」
それは今までに見た事のある表情のなかで一番悪意に満ちた、魅力的な笑顔だった。
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