朝
@mais0n5
エンドロール
目を覚まし、また底なし沼のような眠気に沈むのを数回繰り返すと、もう日本の空港に着いていた。飛行機の空調で痛む鼻と喉、しばらくまともに寝ていない疲れた体を引きずりながら、外の空気を求めて淡々と入国手続きをこなしていく。
乗った便のスーツケースがまだ届いていないことを、まばらに人が集まった電光掲示板が静かに知らせていた。ぼんやりとどこか一点を見つめる友人に、トイレに行ってくると告げ、人でひしめき合う到着ロビーをひとりすり抜けていく。
拭くたびにますます荒れる肛門で、トイレットペーパーには切れ痔の血や液便がべっとりとついている。出しても重い不快感が残り、むしろ健康状態に不安が溜まっていくばかりだ。
急に立ち上がったから、頭から血の気がサッと引いて目の前が暗くなる。ふらつきながらトイレを後にすると、もう友人は僕の分の荷物まで回収して前で待ってくれていた。
「どう、体調は」
「厳しい」
2人ともそれ以上話すことはないので会話をやめ、出口へ足はやに急いだ。
1ヶ月前では想像できなかったような涼しい風を吸い、それだけでも気分は少し良くなったように感じた。ずっと続くと思った夏が、雑踏の合間を風が吹き抜ける度に遠ざかっていくような気がした。
空港から大阪駅までの約1時間、車内で寝るとも疲れで意識が遠のくともいうような感じで、じっとりと嫌な汗を全身にかきながら眠った。4人席で、隣に座った他人は何人か入れ替わって行ったが、僕が起きると迷惑そうにしているのは、いつもみんな一緒だった。
大阪駅から高槻駅までは、快速が一番早かった。でも、普通列車に乗れば高槻の手前で降りる友達とは途中まで一緒だ。家に帰るまでが遠足だと言うけど、日本に着いた時点でもう、旅行は終わったような冷めた気持ちになっていたので、1ヶ月ともに過ごした友達との別れも、ごく簡単なもので、僕は新快速に乗るといい、特に何も言わないまま普通列車に乗り込んでいった彼の背中を見届けてから、すぐ向かいのホームで電車を待った。時折吹いてくる風は、そうは言ってもまだ夏なことを僕に教えていた。
高槻駅では、母親と祖母が迎えにきてくれた。頭は変に冴えていたが、喋る元気はなく、そっけなくしてしまった。タクシー乗り場に向かっているとき、トレンドの衣服に身を包んだ昔のクラスメートとすれ違った。その後を、神経質そうなサラリーマンがピカピカの革靴でセカセカと歩いていった。
僕が来る前に買ったという、母親の持っているたこ焼きが、タクシー中にその匂いを満たしていく。鼻が慣れた頃に家に着いた。いつも通り。タクシーを降りると、日本の太陽が容赦なく僕を照りつけた。風は、日に焼けたアスファルトの匂いを運んできた。
シャワーを浴びて、スーツケースから洗濯物を取り出す。旅帰りの片付けでは、割にテキパキと体が動いた。今思うと、冬眠前のリスのように、後から来る長い眠りに本能的に備えていたんじゃないかと思う。長旅の後、リビングにしばらくはスーツケースをほっぽり出したままじゃなかったのは初めてだった。
母親が作ってくれた味噌汁と、ご飯。それとさっき買ってきたたこ焼き。どれも1ヶ月間食べなかったものばかりだった。そういえば向こうではスープすらほとんど飲まなかったなと思いながら、ミソスープを啜った。うちの両親は、仲は悪いが汁物が上手なのは一緒で、母親は味噌汁、父親は野菜スープを作らせると右に出るものはいないと僕は思っている。久しぶりの日本食で、母親の作る味噌汁を飲める僕はかなり恵まれているんだろう。
僕が帰国する日は、タイで暮らす姉が彼氏と一緒に帰国する日でもあった。姉は、出国直前で高熱を出したが、それを押して日本へ帰ってきた。日本が好きなタイ人の彼氏の手前、航空券をみすみすキャンセルすることはできなかったのだろう。姉の、こうしたちょっと強引なところが成長するごとに目についてきて、考えないようにしているのに、いつもそれで少し機嫌が悪くなってしまう。そんな僕を知ってか知らないでか、日本に先に到着している姉は、風邪の体でほっつき歩いて僕よりも3時間遅く家に帰ってきた。
久しぶりに会った姉は、いかにもしんどそうな顔つきで、がっしりとした彼氏に寄り添うようにしていた。タイ人の彼氏の方は、その横で気恥ずかしそうにしている。彼のあだ名はムーさんで、食べるのが大好きな人の良さそうな顔をしている。不健康な食生活でできたらしいニキビが顔中にあり、姉の顔にも似たようなニキビがいくつかできていた。
姉が大好きで、しかもお金がないムーさんにとって、うちに泊まるのは最高のアイディアだろう。これまでも何回か日本に来ているが、うちに泊まるのは今回が初めての試みだった。緊張して、いつもは上手な日本語もたどたどしくなっている姿を見ると、姉の目を通してムーさんを見つめているような、変に愛おしい気持ちになった。
いつもは4つの食卓の椅子に1つ椅子を持ってきて、そこに僕が座った。いつも僕が座っている席にムーさんが座り、その横に姉、そして両親が2人に向き合って座っている。去年、姉とムーさんと僕の3人で焼肉を食べた時とは比べ物にならないほど、ムーさんは食べなかった。遠慮をしているのだろうか。普段は静かなのに、慣れない相手だと頑張って話を持たせようとする父親の変に大きな声が食卓に響く。いつもは父と目も合わさない母も、相槌のように小さく笑って幸せな家族を演出する。
こういう雰囲気に、ずっと耐えられる人はいるだろうか。しかも、僕のすぐそばでは、ムーさんが空になったお茶碗を持ち、困ったような、遠慮するような顔で辺りを見回している。さすがに遠慮しているとはいえ、いつもは大食いのムーさんが耐えきれずおかわりを所望しているのだ。それを見た時、僕の心でさっきムーさんに感じた変な愛しい気持ちが消えていったような感触がした。僕は黙ってムーさんの器を取り、ご飯を山盛りよそった。
夜ご飯の片付けが終わる頃には、寝不足と疲れが相まってへとへとだった。自室に行くには、姉の寝る部屋を通る必要があるが、半開きになったその扉からは、先に部屋に戻った姉とプーさんがいちゃついているのが見えた。その日はなかなか寝付かれなかった。
次の日から体調が本格的に悪くなり、ほとんど寝て過ごした。ムーさんは家の勝手がわからないし、そもそもご飯を自分で作らない。姉は寝ているし両親も仕事だ。必然的に僕が朝から晩までご飯の準備をしなければならない。体調が悪い時にご飯の準備をするというのは、想像よりはるかに気を遣うことを知った。昨日、病院でウイルス性の胃腸炎だと言われたので、とにかく何か触るたびに手を洗い、人に移らないようにしないといけなかった。
少しずつ遠慮がなくなってきたが、それでもまだぎこちないムーさんにもっと食べるよう促しながら、食べ終わったら片付けてまた横になる。それを3回繰り返して夜になった。
食べて、寝てを一日中繰り返した頭と体は、0時を過ぎてもまだだるいまま寝付くにも寝付かれなかった。そのまま2時間が過ぎ、こうしていてもしょうがないと、思い切って前から気になっていた映画を見ることにした。1人のトイレ清掃員の人生を切り取った、静かな映画で、主役のセリフなんてほとんどない。見始めた時は、これでようやく眠ることができそうだ、と思うほど静かだったが、気づけばすでに2時間が経ち、閉め切ったブラインドの隙間から青白い太陽の光が入り込み始めているのを見た時、今まで自分がすっかり映画に引き込まれていたことに気がついた。映画の主人公が、大都会の片隅で仕事のために朝早く家を出る、そんな時間になっていた。
もう少し映画の話をしよう。物語の中で、その寡黙な主人公は、ふとした瞬間の空や緑の美しさに抗いがたく目を奪われ、心のカメラに焼き付けるように、じぃっと見つめる。その時の表情は、自然という人間の範疇をはるかに超えた素晴らしいものが、私たちを常に見守っているのだと、そんな安心感を見る者に抱かせるのに十分だった。上った日を、彼は目を細めて眺める。映画の最後には、沈みゆく日に向かいながら、あまりにも素晴らしいこの世界を想い、微笑みで持ち上がったほおを熱い涙が伝っていく。人間1人1人は、なんのために生まれ、死んでいくのか。朝日が満ちていく薄暗い部屋の中、重い頭でそんなことを考えた。
エンドロールを見ていると、父親が起きてきて朝ごはんを食べ出した。
「その映画、父さんも見たよ。」なんとも言えないよな、と続けて父は言った。
鬱と、慢性的な肝臓病が1年前から悪化して、僕が旅に出る前には珍しく弱気になっていた父は、どんな気持ちでこの映画を観たのだろうか。今ではいつもと変わらず朝ごはんを食べているが、少し前まで、夜中に父の部屋からは時折、偲ぶように啜り泣く声が聞こえてきた。
外を見ると、まだ太陽は低く、家々はまだ寝ているようだった。朝日に染まる雲と、空の青を仰ぎ見ると、ふと、1ヶ月にわたる旅行が本当に終わったような、そんな気がした。
朝 @mais0n5
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