システムダウン ―賢者の盤面―
正社員になって、数ヶ月が過ぎた。
俺は、あの日のミスを教訓に、誰よりも真面目に、そして正確に仕事をこなすことだけを考えていた。佐藤さんからの罵声はいつしか指示と確認に変わり、他の社員たちも俺を「元フリーター」ではなく、「月城」として見てくれるようになっていた。ささやかだが、確かな変化だった。
その日、事件は起きた。
季節外れの大型台風が接近し、物流システムに大規模な遅延と混乱が生じていた。そんな中、俺たちの倉庫で、追い打ちをかけるように「それ」は発生した。
「システムダウンだと!?」
工場長の怒声が事務所に響き渡る。メインサーバーが落雷の影響で故障。半日分の在庫データがすべて破損し、物理的な在庫とデータの間に致命的な差異が生まれてしまったのだ。最悪なことに、夕方にはクライアントへの最重要大型出荷が控えている。データがなければ、何がどこにいくつあるのか、正確には誰にも分からない。
倉庫内は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「手分けして、目視で確認しろ!」
「こっちのエリアは数が合わん!」
「A-5ブロックの在庫、データ上はゼロなのに現物があるぞ!」
ベテランの佐藤さんでさえ、「クソッ、埒が明かん!」と悪態をつき、頭を抱えている。誰もが目の前のトラブルに忙殺され、全体像を誰も把握できていない。このままでは、出荷時間に間に合わない。会社の信用に関わる、致命的なミスになる。
俺は、その混乱の渦の中心で、立ち尽くしていた。
無力感。どうしようもない巨大な壁が、目の前にそそり立っている。
(……ダメだ。俺一人が足掻いたって、何も……)
また、あの頃の自分が顔を出す。現実から目をそらし、物語の中へ逃げ込もうとする、弱い自分が。脳裏で、大賢者の声が冷ややかに囁く。『愚かな。混沌は世界の理。人の子が抗えるものではない』。
――違う。
俺は、奥歯を強く噛み締めた。
混沌だから、諦めるのか?違うだろ。かつての俺は、魔導書を読み解き、複雑な魔法陣の法則性を見つけ出すことに喜びを感じていたじゃないか。目の前のこの状況は、なんだ?めちゃくちゃに見える在庫の山も、倉庫のレイアウトも、すべてには必ず「法則」がある。
(……盤面を、読め)
俺は目を閉じた。頭の中に、第二倉庫の巨大な立体図面を描く。どこに何が置かれ、どの通路がどう繋がっているか。フリーター時代、暇さえあればぼんやりと眺めていた、あの光景。そうだ、俺は誰よりも、この「ダンジョン」の構造を熟知している。
俺は目を開け、近くにあったホワイトボードを事務所の中央に引きずり出した。
「みなさん、少しだけいいですか!」
普段の俺からは考えられない大声に、誰もが驚いてこちらを見る。佐藤さんが「何してんだ、月城!」と怒鳴った。
「すみません!ですが、このまま闇雲に探しても間に合いません!一度、全員の情報を整理させてください!」
俺はペンを握り、ホワイトボードに倉庫の簡易マップを描き殴った。
「まず、出荷する製品リストを最優先で当たります。佐藤さんチームはAブロックの大型製品を!俺と田中さんは、Cブロックの細かい部品を担当します!各エリアの在庫数を、ただ数えるんじゃなく、『データとの差異』だけをこのボードに書き込んでください!」
「差異だと?」
「はい!プラスか、マイナスか。その数字だけを集めれば、どこで計上ミスが起きているのか、ズレの法則性が見えてくるはずです!」
それは、大賢者が魔法陣の綻びを見つけ出す時の思考法そのものだった。
誰もが、俺の気迫と、その提案の意外な論理性に、言葉を失っている。
最初に沈黙を破ったのは、佐藤さんだった。
「……面白い。やってみる価値は、あるかもしれねえな」
彼は、近くにいた若手に檄を飛ばした。
「おい、お前ら!月城の言う通りに動け!ごちゃごちゃ考える前に行動しろ!」
その一言が、号令になった。
止まっていた歯車が、一斉に、新たな秩序を持って動き出す。俺は、かつて賢者として仲間を導いた時(という妄想)のような、不思議な高揚感を覚えていた。違う。これは、妄想じゃない。現実だ。
俺はハンディの代わりに指示書を握りしめ、倉庫の中を駆け抜けた。
「田中さん!C-3の棚、お願いします!」
「おうよ!」
「佐藤さん!A-2の差異、マイナス5です!」
「了解だ!」
バラバラだった作業員たちが、俺の描いた盤面の上で、一つの目的のために動く駒となる。ホワイトボードには、各所からの差異報告が次々と書き込まれていく。
プラス5、マイナス3、プラス2、マイナス8……。
混沌としていた数字の羅列の中に、やがて、一本の「線」が見えた。
「……分かった」
俺は、ホワイトボードの前で呟いた。
「システムが飛ぶ直前に入庫処理した、B-4エリアのデータが、他の全エリアに悪影響を及ぼしているんだ……!」
原因箇所を特定したことで、照合のスピードは劇的に上がった。
そして、出荷時間を知らせるチャイムが鳴る、わずか10分前。
「……全在庫の照合、完了しました!」
俺の報告に、事務所内にいた全員から、どっと歓声が上がった。
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