正社員という名の新クラス ―最初のクエストと抵抗―

正社員としての初日。

俺は、いつもより少しだけ早くロッカールームにいた。真新しい作業着に袖を通す。フリーター時代と同じデザイン、同じ生地のはずなのに、左胸に縫い付けられた「月城」の名札の刺繍が、やけに重く感じられた。

クラスチェンジは完了した。だが、ステータスが上がったわけでも、新たなスキルを覚えたわけでもない。むしろ、背負わされた「責任」という名のデバフ(弱体効果)で、身体が動かしにくいほどだった。

「よう、新人」

振り返ると、腕を組んだ田中さんが壁に寄りかかっていた。

「た、田中さん。おはようございます」

「浮かれてんじゃねえぞ。ここからが本番だ。お前、今日から第二倉庫の在庫管理チームな。リーダーは佐藤さんだ。挨拶しとけよ」

「第二倉庫……はい!」

佐藤さん。俺がまだ賢者(のつもり)だった頃、最も俺を「使えない奴」として扱っていた、ベテラン社員の一人だ。まさか、直属の上司になるとは。いきなりハードモードのクエストを割り振られた気分だった。

案の定、佐藤さんの第一声は冷ややかだった。

「……ああ、お前か。なんでお前が正社員になれたのかね。まあいい、足だけは引っ張るなよ」

明らかに歓迎されていない。周囲の他の社員たちも、どこか値踏みするような視線を向けてくる。彼らにとって俺は、ついこの間まで倉庫の隅でぼんやりしていた、あのダメなフリーターの月城のままだ。信頼という経験値は、完全にゼロからのスタートだった。

「まず、これを覚えろ」

佐藤さんから渡されたのは、分厚いファイルと、ハンディターミナルと呼ばれる端末だった。

「新商品の棚卸しとデータ入力だ。品番、個数、ロケーション、一つでも間違えたらラインが止まる。分かったらさっさとやれ」

これが、正社員としての最初のクエスト。

俺は「はい!」と声を張り上げ、教えられた手順通りに作業を開始した。ピ、ピ、ピ、と小気味よい電子音を立てて、商品のバーコードを読み取っていく。単純作業。だが、その一行一行に、会社の業務が乗っかっている。フリーター時代には感じたことのないプレッシャーが、指先を震わせた。

(落ち着け……これは、俺が自分で選んだ現実だ)

妄想に逃げ込むな。目の前の数字に集中しろ。俺は己に言い聞かせ、作業を続けた。

だが、焦れば焦るほど、思考は空回りする。

「おい、月城!そこはダブルチェック必須だろうが!見て覚えろって言ったよな!」

「す、すみません!」

「手が遅えんだよ!そんなんで今日のノルマ終わんのか!?」

「申し訳ありません!」

佐藤さんの罵声が、容赦なく飛んでくる。それは、かつての俺が最も苦手とした、現実世界からの直接攻撃だった。心がすり減っていく。脳裏に、大賢者の声が囁きかける。『こんな下賤な仕事、我の知性に値しない……』。

(うるさい!)

俺は頭を振る。違うだろ。お前が「下賤」と見下しているこの仕事で、ここにいる全員が、飯を食ってるんだ。俺も、これからはそうなるんだ。

その時だった。

棚の最上段にある段ボール箱に手を伸ばした瞬間、バランスを崩し、隣の箱に腕が当たった。ガシャン、と鈍い音がして、商品が数個、床に転がり落ちる。精密機器の部品だった。

やってしまった。

倉庫内が、一瞬、静まり返る。すべての視線が俺に突き刺さる。

「てめえ……何やってんだ!」

鬼の形相で歩み寄ってくる佐藤さん。俺は、全身から血の気が引くのを感じた。

(ああ、終わった……)

弁解の言葉も浮かばない。初日から、これだ。もう、ここにはいられない。

逃げたい。消えてしまいたい。そうだ、またあの世界に……。

そこまで考えた時、ふと、田中さんの言葉が脳裏をよぎった。

『壁にぶつかった時、逃げ出さねえか。それだけだよ』

――自分の、足で立つ。

俺は、床に散らばった部品の破片を、ただ見つめた。

そして、ゆっくりと顔を上げた。

「……申し訳ありません!俺の、俺一人の責任です!」

俺は、その場で佐藤さんに向かって、九十度に頭を下げた。

「弁解のしようもありません。この損害は、必ず俺が働いて弁償します。ですが、その前に、今すぐ代替品の在庫確認と、ラインへの影響を報告させてください!」

予想外の反応だったのだろう。佐藤さんは、振り上げた拳を下ろせないまま、固まっていた。

俺は頭を下げたまま、続けた。

「このミスを、ただの失敗で終わらせません。二度と繰り返さないために、俺に、この後の処理をやらせてください。お願いします!」

沈黙が、重くのしかかる。

やがて、佐藤さんの口から、ため息混じりの声が漏れた。

「……当たり前だ。お前がやったんだろうが。さっさと拾って、事務所に来い。始末書の書き方から教えてやる」

「……はい!」

顔を上げた俺に、かつてのような侮蔑の色はなかった。ただ、呆れと、ほんの少しの……何か別の感情が混じった、複雑な目をしているだけだった。

その日は、人生で初めての始末書を書き、終業後も一人、ミスの後処理に追われた。

ヘトヘトになってタイムカードを押すと、もう誰もいないと思っていた喫煙室から、田中さんが出てきた。

「……派手にやらかしたらしいな」

「……お恥ずかしい限りです」

「まあ、死んだわけじゃねえ。勉強代だと思え」

それだけ言うと、田中さんは俺の横を通り過ぎていく。その背中に、俺はもう一度、深く頭を下げた。

一人、夜道を歩く。

身体は鉛のように重い。心は、始末書とミスの記憶でズタズタだ。

だが、不思議と、気分は悪くなかった。

逃げなかった。自分の足で、立とうとした。その結果がこれでも、後悔はなかった。

正社員。それは、守られるだけの存在じゃない。ミスをすれば頭を下げ、自分のケツは自分で拭う。そういう、当たり前の責任を負うクラス。

手に入れたのは、安定じゃない。戦うための、覚悟だ。

俺は夜空を見上げ、小さく笑った。

「……経験値、しょっぺえな」

だが、確かに感じていた。

ゼロだった信頼のステータスに、「1」だけ、ポイントが振られたような気がした。

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