ただの俺、ただの毎日
あのシステムダウンの一件は、俺にとって大きな転機となった。
工場長からは直接、感謝の言葉をもらい、佐藤さんからは「お前、ああいうゴタゴタの時、妙に頭が回るな」と、彼なりの最大の賛辞を受けた。俺はもう、「使えない元フリーター」ではなかった。「いざという時に頼りになる、月城」として、チームの中に確かな居場所を得ていた。
あれから一年。
俺は、新しく入ってきたフリーターの青年に、フォークリフトの操作を教えていた。
「月城さん、俺、全然うまくならなくて……」
「焦んなよ。最初はみんなそうだ。俺なんか、もっとひどかったぜ」
そう言って笑う自分に、少し驚く。かつては、他人とまともに話すことさえできなかったのに。
「いいか。大事なのは、全体を見ることだ。荷物だけじゃなく、その周りの空間、通路の幅、全部を一つの絵として頭に入れるんだ」
それは、あの日、俺が掴んだ「盤面を読む」感覚だった。
「――お前も、いっちょまえに先輩風吹かせるようになったじゃねえか」
聞き覚えのある声に振り返ると、自販機に寄りかかった田中さんが、缶コーヒー片手にニヤニヤしていた。
「た、田中さん!からかわないでください」
「事実だろ。いいツラ構えになった」
田中さんは、もう一本、自販機でコーヒーを買うと、俺に投げてよこした。一年前と同じ、少しだけ高い、微糖のやつだった。
二人で並んで、夕暮れの空を眺めながら、ぬるいコーヒーを飲む。
「なあ、月城」
「はい」
「お前、なんでここで正社員になろうと思ったんだ?」
今更な、という質問だった。だが、俺はすぐに答えられなかった。
安定した給料。福利厚生。世間体。理由はいくらでもあった。だが、今は、そのどれもが違う気がした。
俺は、自分の手のひらを見つめた。筋トレと、日々の仕事で硬くなった、ゴツゴツとした手。
「……自分の足で、立ちたかったんだと思います」
一年前、田中さんが俺に言ってくれた言葉。
「誰かのせいにも、環境のせいにもしないで。自分の力で、何かを掴んでみたかった。それが、たまたまここだった。それだけです」
田中さんは何も言わず、ただ、空になった缶をゴミ箱に投げ入れた。カコン、と軽い音が響く。
「……そうかよ。じゃあ、せいぜい、その足でしっかり踏ん張ってろよ」
「はい」
田中さんと別れ、一人、帰り道を歩く。
もう、大賢者リョウ・ツキシロが俺に囁きかけることはない。彼は、あのシステムダウンの夜、俺が現実で初めて仲間を導いたあの瞬間に、完全に消え去ったのだと思う。
いや、違う。
彼は消えたんじゃない。分析力、観察力、パターンを見つけ出す思考。そういった「スキル」だけを俺の中に残し、物語の登場人物としての役割を終えて、静かに成仏したのだ。
俺の毎日に、魔王は現れない。ドラゴンも、派手な魔法も存在しない。
あるのは、汗を流して荷物を運び、仲間と冗談を言い合い、時にはトラブルに頭を抱え、それでも必死に一日を乗り越える、ただの毎日だ。
それで、いい。
それが、いい。
賢者は死んだ。
そして俺は、この現実(世界)で、ようやく、ただの「月城亮」として生きていく。
この、どこまでも続いていく、地味で、面倒で、それでいて、かけがえのない冒険を。
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