正社員への道 ―最初のボス(面接官)―

 あの日、賢者は死んだ。そして男が生まれた。

だが、生まれたての男はあまりに無力だった。フォークリフトの免許を取り、時給がわずかに上がったとはいえ、俺は依然として「フリーター」。社会という巨大なダンジョンの、最下層にいることに変わりはない。いつクビを切られてもおかしくない不安定な身分。このままではダメだ。成り上がる。そのためには、まず……。

チャンスは、思ったより早く訪れた。

事務所の掲示板に、一枚の張り紙。『正社員登用試験のお知らせ』。

心臓が嫌な音を立てて跳ねた。これだ。フリーターから正社員へ。それは、この現実世界における、最初の、そして最も重要なクラスチェンジ。俺は震える手で、壁から申込用紙を一枚剥がした。

筆記試験は、気合で乗り切った。仕事の合間、休憩時間、帰宅後のわずかな時間。全てをSPIの問題集に注ぎ込んだ。かつて魔導書を読み解いた集中力(ただの思い込みだ)を、今こそ現実で発揮する時だった。結果は、ギリギリの合格。だが、本当のボスはここからだった。

最大の壁――『面接』。

俺はなけなしの金で安物のスーツを買い、クローゼットの奥で眠っていたネクタイを引っ張り出した。鏡の前に立つ。そこに映っていたのは、着慣れない服に着られた、貧相で自信なさげな男だった。

「し、志望動機は……」

声が、上ずる。

「えーっと、こちらの会社には、アルバヤイトとして、その……お世話になっており……」

ダメだ。言葉が出てこない。頭の中には、大賢者リョウ・ツキシロとしての淀みない弁舌が響く。『我が目的は、この地に根ざす因果の律を観測し……』。

(違う!そんなファンタジー、誰が聞くか!)

俺は頭を振って妄想を追い出す。じゃあ、本当の動機は?「安定した給料が欲しい」「福利厚生が魅力だ」。そんな本音、言えるはずがない。

「あなたの長所は?」

長所?なんだ、それ。筋トレで少し体力がついたことか?フォークリフトの運転が少しうまいことか?あまりに、矮小。あまりに、しょぼい。

「……」

言葉に詰まり、鏡の中の情けない自分から目をそらす。無理だ。俺には、自分という商品を売り込むスキルなんて、これっぽっちも無い。

面接を数日後に控えた日。俺は倉庫の隅で、絶望的な気分で立ち尽くしていた。その姿がよほど滑稽だったのだろう。缶コーヒーを片手にした田中さんが、呆れたように声をかけてきた。

「おい月城。ラスボス戦前の勇者みたいなツラしてんじゃねえよ」

「た、田中さん……」

「面接だろ。そんなにビビってどうすんだ」

「だって、俺には……話せるような立派なことなんて、何も……」

俺が俯くと、田中さんはガシガシと頭を掻き、面倒くさそうに言った。

「あのな。面接官のジジイどもは、お前の武勇伝なんて聞きたいわけじゃねえんだよ」

「え……」

「あいつらが見てんのは、たった一つだ。『こいつは、すぐに辞めねえか』『壁にぶつかった時、逃げ出さねえか』。それだけだよ。立派な経歴より、しょぼくても、自分の足で立ってる奴のほうが信用できる。分かったら、シャキッとしろ」

田中さんはそれだけ言うと、俺の肩を一度、パンと強く叩いて去っていった。

――自分の、足で立つ。

その言葉が、俺の中で反響した。

面接当日。重い足取りで会議室のドアを開ける。そこには、見るからに厳格そうな工場長と、人事部長が座っていた。生殺与奪の権利を握る、最初のボスたち。

「……月城亮です。本日は、よろしくお願いいたします」

声は、震えていた。

型通りの質問が続く。俺は、田中さんの言葉を胸に、ただ正直に、不器用に答えた。

そして、工場長が俺の履歴書から顔を上げ、核心を突いてきた。

「君の勤務評価だが、ここ数ヶ月で劇的に変わっている。正直に言って、それ以前の君は、いつ辞めてもおかしくないと思っていた。単刀直入に聞く。君に、何があった?」

来た。最大の難関クエスト。

俺は一度、固く目を閉じた。脳裏をよぎる、大賢者の記憶(妄想)。仲間との旅(孤独な現実逃失)。

違う。語るべきは、それじゃない。

俺は、目を開けた。

「……俺は、逃げていました」

「逃げていた?」

「はい。自分の能力のなさ、性格のダメさ、その全てを、周りの環境や、他人のせいにして……自分は本当は特別な人間なんだと、そう思い込むことで、現実から逃げていました」

賢者という言葉は使わない。だが、俺は、俺の全てを晒した。

「ですが、そんな俺に、ある先輩が……現実を教えてくれました。『お前は何も持っていない。なら、足掻くしかないだろ』と。その通りだと思いました。俺には何もありません。だから、まず身体を鍛えました。資格を取りました。それは、特別な力じゃない。でも、今の俺が、自分の足で立つために必死で手に入れた、唯一の武器です」

俺は、机の上の自分の拳を、強く握りしめた。

「俺は、立派な人間ではありません。ですが、どん底の惨めさを知っています。そして、そこから一歩這い上がるための努力の仕方を、この数ヶ月で学びました。誰よりも真面目に、誰よりも必死に働きます。それしか、俺にはありません」

言い終えると、沈黙が落ちた。工場長は、値踏みするように俺の目をじっと見ている。

(……終わった)

もう、何もかも。俺は、全てを出し切った。

一週間後。掲示板の『正社員登詠試験合格者』の欄に、俺の受験番号があった。

それを見た瞬間、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。涙が、滲んだ。

その日の帰り、いつもの自販機の前で田中さんとすれ違った。俺は、声を振り絞って言った。

「田中さん。……ありがとうございました」

「あ? 俺は何もしてねえよ」

田中さんはぶっきらぼうに言うと、自販機で缶コーヒーを二本買い、一本を俺に投げてよこした。いつも俺が飲んでいる安物より、少しだけ高い、微糖のやつだった。

「勘違いすんな。お前が、お前自身の力で掴み取ったんだろ」

「……はい」

「じゃあ、せいぜい期待に応えろよ。……新人」

そう言って笑う田中さんの背中に、俺は深々と頭を下げた。

手の中にある、温かい缶コーヒー。それは、どんなエリクサーより、俺の心を回復させてくれた。

賢者は死んだ。

そして今日、この場所に、一人の「正社員」が、生まれた。

俺の、現実世界での冒険は、まだ始まったばかりだ。

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