賢者は死んだ、男は生まれた

​魔法は、解けた。あの日、田中さんという名の、あまりに残酷な「現実」そのものに叩きのめされてから、俺の世界から一切の色が消え失せた。

​倉庫で運ぶ段ボールは、鉛のように重い。同僚たちの笑い声は、異世界の呪文より理解不能なノイズに変わった。そして、古びたアパートの鏡に映るのは、猫背で、生気がなく、どこにも取り柄のない、ただの冴えないフリーター。大賢者『リョウ・ツキシロ』の面影など、どこにもない。これが、俺。これが、月城亮。

​数日間、俺は抜け殻だった。仕事は休み、一日中部屋の天井を眺めて過ごした。脳裏にこびりついて離れないのは、田中さんの言葉。『お前は賢者でも英雄でもねえ。ただの、現実から逃げてる、臆病なフリーターだ』。その通りだった。あまりに的確で、反論の余地すらなかった。俺の人生は、壮大なファンタジーなんかじゃなく、ただの陳腐な現実逃避だったのだ。

​死のうか、とすら思った。だが、死ぬ勇気もなかった。

その時、ふと、田中さんのことを思い出した。彼は、かつては俺と同じだったと言った。だが、今の彼は違う。社員として働き、同僚とくだらない話で笑い、仕事の指示を飛ばす。それは決して賢者のように煌びやかではないが、確かに「現実」に根を下ろして生きていた。

​(……あいつにできて、俺にできないのか?)

​腹の底から、黒いマグマのような何かが込み上げてきた。それは、今まで感じたことのない、純粋な「悔しさ」だった。

俺は、何もない。スキルも、金も、コミュ力も。だが、この惨めな現実だけが、今の俺の全てだった。

​なら、やるしかねえだろ。

​翌日から、俺の「修練」は、その意味を全く変えた。

​まず、肉体から。俺はYouTubeで「初心者 自重トレーニング」と検索し、その日から腕立て、腹筋、スクワットを始めた。最初は10回もできず、床に突っ伏して惨めに喘いだ。全身の筋肉が悲鳴を上げ、翌日は歩くことすらままならない。だが、その「痛み」こそが、俺が「現実」に生きている唯一の証だった。賢者の頃の、指先一つで万物を操る万能感とは違う。汗と疲労だけが、俺に確かな手応えをくれた。

​次に、仕事。俺はただ言われた荷物を運ぶだけの機械(ゴーレム)になるのをやめた。どうすれば効率的に運べるか、どういう順番で積めば崩れないか。初めて、自分の頭で「仕事」について考えた。社員の動きを観察し、真似た。田中さんの、無駄のない身体の使い方も盗んだ。

​「月城、最近ちょっと動き変わったな」

ある日、田中さんがボソリと言った。俺は心臓が跳ねるのを抑え、何も言わずに頭を下げた。嬉しくなんかない。まだだ。まだ、何も成し遂げていない。

​自己投資も始めた。金はない。だから、市の図書館に通い、フォークリフトの免許に関する本を借りて読み漁った。休憩時間に、倉庫の隅で必死に学科問題を解いた。同僚に「珍しいな、勉強か?」と笑われたが、もう気にならなかった。俺はもう、彼らをNPCだと見下して精神的勝利を得る必要はなかった。

​数ヶ月後、俺はなけなしのバイト代をはたいて試験を受け、フォークリフトの免許を取得した。履歴書の「資格」の欄に、初めて一行、書けることができた。それはどんな伝説級のスキルを手に入れるより、誇らしかった。

​変化は、少しずつ現れる。

身体には、うっすらと筋肉の筋が浮かび始めた。以前より明らかに、荷物が軽く感じる。仕事では、免許を取ったことで任される範囲が広がり、時給もわずかに上がった。

​そして、あの日。

休憩中、自販機で缶コーヒーを買っていると、田中さんが隣に来た。一番気まずい相手。だが、俺は逃げなかった。

​「……お疲れ様です」

喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど、普通だった。

田中さんは一瞬、意外そうな顔をして、そしてニヤリと口の端を上げた。

​「おう。お前、フォークリフトの免許、取ったんだってな」

「……はい。やっと」

「ふーん。まあ、頑張れや」

​それだけ。彼はそれだけ言うと、コーヒーを片手に職場へ戻っていった。

賞賛も、同情もない。ただ、一人の「同僚」として、対等に放たれた言葉。

​その言葉が、どんなレベリングアップの通知音より、俺の魂を震わせた。

​鏡に映る俺は、相変わらず冴えない男のままだった。だが、その目つきは、以前とは明らかに違っていた。

賢者は死んだ。

そして今、このクソみたいな「現実」という名のダンジョンに、一人の男が、ようやく生まれ落ちたのだ。物語は、ここから始まる。

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