月まで届け、このくしゃみ

クソプライベート

マジくしゃみ

「は……は……ハッ……」

 来る。今年も、最大級のやつが。

 サラリーマンの花岡肇は、ベランダで夜風にあたっていた。春の夜気は心地よいが、スギ花粉という名の悪魔が彼の鼻腔を支配していた。そして、ついに、その瞬間は訪れた。

「ハァァァックションッッ!!!」

 我が生涯に一片の悔いなし、と叫びたくなるほどの、完璧なくしゃみだった。鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた花岡は、夜空の異変に気づいた。

 いつもそこにあるはずの月が、ビリヤードの球のように、凄い勢いで空の彼方へ弾き飛ばされていくのが見えたのだ。

「……気のせいか」

 彼は鼻をかむと、部屋に戻って寝た。

 翌日、世界はひっくり返っていた。

 テレビはどのチャンネルも、月の消失をトップニュースで報じていた。潮の満ち引きは停止し、世界中の漁港がパニックに。夜行性の動物は困惑し、狼は一匹も遠吠えをしなかったという。

 原因不明。天文学者たちは「ありえない物理現象だ」と頭を抱えていた。

 その夜、花岡の部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けると、血走った目をした隣人の星野が立っていた。彼は自作の望遠鏡を片手に、わなわなと震えている。

「花岡さん……あなた、昨日、やりましたね?」

「はあ? 何をです?」

「月です! 僕の計算によると、月を弾き飛ばした謎の衝撃波の発生源は、このマンション! あなたのベランダなんです!」

 ニートだが、天文学への情熱だけは本物だった。彼は、昨夜のくしゃみが原因だと確信していた。

 観念した花岡は、星野と共に、前代未聞の「月、軌道修正プロジェクト」を開始した。

「方法は一つしかありません」と星野は断言した。「もう一度、同じ威力のくしゃみを、正確なタイミングと角度で、月の進行方向に『おかわり』するんです!」

 二人は不眠不休で計算を重ね、くしゃみを放つべき地球上の座標と時刻を特定。匿名で「月の軌道を修正する唯一の方法」と題した論文を、NASAとJAXAに送り付けた。

 数日後、シベリアの凍てつく平原に、二人の姿はあった。世界中の科学者たちが、半信半疑ながらも衛星でその地点を監視している。

 花岡の前には、星野が日本から空輸した、大量の杉の枝が山積みになっていた。

「さあ、花岡さん! 吸って! 思う存分吸い込むんです!」

「う、うおおお……」

 花岡が杉の山に顔を突っ込む。やがて、彼の鼻がムズムズし始めた。来た。あのでかいやつが、再び。

 星野がストップウォッチを睨み、叫ぶ。

「今です! 放てぇぇぇっ!!」

「へ……ブッッッッックッッッショォォォォイ!!!!」

 くしゃみは、目に見えない衝撃波となって、真空の宇宙を駆け抜けた。

 世界中の天文台が、歓喜の声を上げた。

 あらぬ方向へ飛んでいた月が、カツン、と軽い音を立てるかのように、元の軌道へと綺麗に戻ったのだ。

 後日、花岡の元に、スウェーデンから一通の手紙が届いた。それは、ノーベル物理学賞ではなく、この一件のために新設された「ノーベル平和くしゃみ賞」の受賞を知らせるものだった。

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