第5話

 その日の空は、朝から不機嫌な灰色に塗り込められていた。テレビのニュースキャスターが、大型の台風が今夜、この地域に最も接近すると、神妙な面持ちで告げている。学校は異例の早さで午前中に終わりを告げ、生徒たちは足早に家路についた。


 俺もその一人だったが、自分の部屋の窓から、次第に狂暴になっていく風雨を眺めているうちに、胸騒ぎが大きくなっていくのを感じていた。生ぬるい風が窓をガタガタと揺らし、横殴りの雨が景色を白く煙らせる。


(……あいつ、大丈夫か)


 脳裏に浮かぶのは、もちろん井上光莉の顔だ。

 彼女は、あの気丈な態度とは裏腹に、雷や嵐といった、人間の力の及ばない自然の猛威をひどく怖がっていた。幼い頃、雷が鳴るたびに半べそで俺の服の袖を掴んでいた、小さな光莉の姿が思い出される。


 スマートホンを手に取り、LINEのトーク画面を開く。『大丈夫か?』と短いメッセージを送るが、いつまで経っても既読のしるしはつかない。電話をかけてみても、呼び出し音が虚しく響くだけだった。


 胸のざわめきが、確かな不安へと変わっていく。

 いつもなら、お母さんかヘルパーさんがいるはずだ。でも、万が一、一人だったら? あの広い家で、たった一人でこの嵐に耐えているとしたら?


「……っ、くそ!」


 俺は椅子から立ち上がると、クローゼットからレインコートを引っ張り出し、玄関へと走っていた。


 光莉の家までの短い道のりは、まるで冒険のようだった。横風に煽られて、何度か足を取られそうになる。役に立たない傘は早々に諦め、フードを深く被って、水の膜が張ったアスファルトを蹴った。


 息を切らして、豪奢な門の前にたどり着く。インターホンを何度も鳴らすが、応答はない。雨音に遮られているだけかもしれない、と自分に言い聞かせ、今度は直接ドアを叩く。ガンガンと、焦りを乗せて。それでも、中から物音一つ聞こえてこなかった。


 ポケットの中で、冷たい金属の感触がする。

 いつだったか、「万が一の、本当に緊急の時だけよ」と光莉のお母さんから渡されていた、家の合い鍵。今が、その「緊急の時」じゃなくて、なんなんだ。


 震える指で鍵を差し込み、ドアを開ける。

「光莉! いるのか!?」

 呼びかけに応えはなく、家の中は不気味なほど静まり返っていた。薄暗い廊下を進み、リビングのドアを開けると、俺はソファの隅で丸くなっている、小さな塊を見つけた。


「光莉っ!」


 駆け寄ると、それは毛布にくるまった光莉だった。顔は青白く、小さな体が小刻みに震えている。


「…はるき…? なんで…」

「連絡しても出ないから、心配で…! おばさんは? ヘルパーさんは?」

「お母様、台風で電車が止まって、まだ職場に…。ヘルパーさんも、今日は危険だから来られないって、連絡が…」


 その時だった。

 ピカッ、と窓の外が白く光った瞬間、すぐ近くに雷が落ちたのだろう、世界が引き裂かれるような轟音が響き渡った。


「ひっ…!」


 光莉が短い悲鳴を上げ、毛布の中でさらに体を固くする。その震える肩を見ていると、どうしようもなく、守らなければという思いが腹の底から湧き上がってきた。


「だ、大丈夫だ! 俺がいるから!」


 根拠なんて何もない。でも、そう言うしかなかった。

 俺はひとまずキッチンへ向かい、ケトルでお湯を沸かしながら、戸棚にあったインスタントのココアをマグカップに入れた。何か温かいものを飲めば、少しは落ち着くはずだ。


「ほら、これ飲んで」

「…ありがとう、ございます」


 震える手でマグカップを受け取る光莉に、俺は努めて明るい声で言った。

「よし! こうなったら、気を紛らわすために勉強だ! この前の数学の続き、やるぞ!」

「……こんな時に、ですか?」

「こんな時だからだよ! 難しい問題でも考えてれば、雷なんて気にならなくなるだろ!」


 半ば強引に、俺は自分のスクールバッグから参考書を取り出し、ローテーブルの上に広げた。光莉は呆れたような顔をしていたが、それでも、俺の隣に車椅子を寄せ、ノートを開いてくれる。


 いつもの、光莉先生による数学講座。

 教える立場と教えられる立場。でも、今日は何かが違った。外で吹き荒れる嵐の音が、まるで世界の終わりを告げるBGMのように響いている。鉛筆が紙の上を走る音だけが、この閉ざされた空間での唯一の営みだった。


 俺は問題に集中しようと試みるが、どうしても意識は隣の光莉に向かってしまう。雷が光るたびに、彼女の肩が小さく跳ねる。そのたびに、俺の心臓もぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。


 嵐が強くなるにつれて、俺たちの距離は自然と近づいていった。

 この嵐が過ぎ去れば、この非日常的な時間も終わってしまう。それは分かっていた。でも今はただ、この静寂が、彼女の震えが、少しでも早く止まることだけを願っていた。


 その、瞬間だった。

 バチン、という短い音と共に、部屋の明かりがすべて消えた。テレビの電源ランプも、デジタル時計の表示も。世界から、すべての光と人工の音が消え去った。


 暗闇と、窓を叩く雨音だけが残された部屋で、光莉の息を呑む音が、やけにはっきりと聞こえた。


「……え?」

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ふたりの世界 犬山テツヤ @inuyama0109

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