外伝⑤:学園の設計者
号令寺 巌(ごうれいじ いわお)には、かつて息子がいた。
名は光(ひかる)。その名の通り、光のように聡明で、誰からも愛される優しい少年だった。巌は、自らが築き上げた会社の跡継ぎとして、光に全ての希望を託していた。
だが、光は、あまりにも繊細すぎた。
彼が青年になった頃、世界は情報の洪水で満ち溢れていた。インターネット、SNS、VR。無限に流れ込む他人の意見、悪意、嫉妬。人々は自由という名の下に、無責任な言葉のナイフを振り回していた。光は、その全てを真正面から受け止めてしまった。
「父さん、僕にはもう分からないんだ。何が正しくて、何が間違っているのか。昨日、正義だと言われていたことが、今日は悪になっている。みんな、自分の見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いている。そこには真実なんてないんだ」
光は次第に心を病み、部屋に引きこもるようになった。かつて聡明だった彼の瞳からは光が消え、溢れ返る情報のノイズに怯えるように、ただ虚空を見つめるだけになった。巌は、最高の医者とカウンセラーを付けたが、誰も光を救うことはできなかった。
ある雨の日、光は、自ら命を絶った。
彼の部屋には、山のような自己啓発本と、引き裂かれた哲学書、そして「自由が僕を殺した」という短い遺書だけが残されていた。
巌の世界は、その日、終わった。
会社も、財産も、名誉も、全てが色褪せて見えた。彼の心を満たしたのは、息子を守れなかった後悔と、そして、息子を殺したこの世界そのものへの、底知れぬ憎悪だった。
自由が、個性が、感情が、光を殺したのだ。
ならば、それら全てを、この世界から消し去ってやる。
巌は、残りの人生の全てを懸けて、一つの計画に着手した。それが『私立・大日本規律学園』の創設である。それは学校ではない。息子を殺した混沌とした世界から、若者たちを隔離し、保護するための、完璧な無菌室。彼が夢見た、最後の楽園(ユートピア)だった。
彼は、自らの財産を全て注ぎ込み、各分野の専門家を集めた。心理学者、脳科学者、軍事戦略家、社会学者。
「諸君に依頼したいのは、教育ではない。『人間の再設計』だ」
巌の言葉に、専門家たちは息を呑んだ。
「私は、人間から『迷う』という機能を削除したい。感情という名のバグ、個性という名のノイズ、自由という名のウイルス。それら全てを完全に除去し、国家というシステムのために寸分の狂いなく機能する、純粋な部品を創り出すのだ。それが、私の息子のような悲劇を二度と繰り返さない、唯一の方法だと確信している」
彼の瞳は、狂信者のそれだった。だが、その奥には、息子を失った父親の、深い、あまりにも深い悲しみが澱んでいた。彼は、世界を憎んでいるのではない。息子を守れなかった自分自身を、許せなかったのだ。
学園長室の執務机。その引き出しの奥に、巌が誰にも見せたことのない一枚の写真が仕舞われている。
それは、まだ幼い光が、満面の笑みでタンポポの綿毛を吹いている写真だ。その無垢な笑顔は、彼が創り上げた学園が、最も強く否定し、除去しようとしたものの象徴だった。
彼は時折、その写真を取り出しては、静かに語りかける。
「光よ。見ていてくれ。父さんが今、お前が苦しんだ全ての原因を、この世界から消し去ってやる。もう誰も迷わない、誰も苦しまない、完璧な世界を創ってみせる。お前が生きられなかった、父さんの楽園をな…」
彼の革命は、平和島渉というたった一人の少年によって潰えた。
だが、もし、その少年がいなければ。
号令寺巌という、世界で最も息子を愛した男が創り上げた静かな地獄は、あるいは本当に、一つの楽園として完成してしまっていたのかもしれない。
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