外伝④:教官の黄昏
男の名は、佐官(さかん)という。私立・大日本規律学園で物理学を教える、一介の教官である。
彼の自宅アパートは、学園の寮をそのまま縮小したかのような空間だった。国防色と白と黒のみで構成され【第86条】、私物という概念は存在しない【第67条】。家具は全て、機能性を最優先した無機質なデザインで、ミリ単位の精度で配置されている。床に塵一つなく、壁に染み一つない。彼は退勤後、そして起床後、必ず3時間を清掃に充てる【第66条】。それは義務ではない。彼にとっての、精神の調律だった。
食事は、自炊したレーション状の栄養食のみ。塩分、脂質、炭水化物を完璧に計算し、毎日同じ時間に同じ量を摂取する。咀嚼回数も、学園の規定通り左右30回ずつだ【第63条】。学園が崩壊し、あの狂気の規律が失われた今も、彼の生活リズムは学園の基準時計と共にあり続けた。
多くの同僚が、解放後の社会に適応できず精神の均衡を失っていく中、佐官だけは変わらなかった。なぜなら、彼は学園の規律を「強制」されたと感じたことが一度もなかったからだ。彼にとって、あの200箇条の校則は、混沌とした世界から身を守るための、完璧で美しいシェルターだった。彼は心から、あの学園の理念を信奉していた。個性や感情は、宇宙の物理法則を乱すノイズであり、除去されるべきバグなのだと。
生徒番号441が引き起こした革命は、彼にとって世界の崩壊に等しかった。完璧な調和が、たった一人の異分子によって破壊されていく様を、彼は無力感と共に眺めることしかできなかった。学園の閉鎖後、彼は自室に引きこもり、かつての完璧な世界を、自身の私生活において再現し続けているのだ。
だが、そんな彼にも、一つだけ秘密があった。
深夜0時。全てのタスクを終えた彼が、唯一、彼の世界の『校則』を破る時間。
彼は厳重に施錠されたクローゼットの奥から、一つのアタッシュケースを取り出す。中に入っているのは、外部情報の持ち込みを禁じた【第88条】学園のルールでは、最大級の違反物。――古びたレコードプレイヤーと、一枚のレコードだ。
彼はヘッドフォンを装着し、震える指で針を落とす。
流れ出すのは、校歌でも行進曲でもない【第87条】、人間の喜怒哀楽が入り混じった、不純で、非論理的で、混沌とした音楽――ジャズだった。
即興演奏の予測不能な旋律が、彼の脳の論理回路【第135条】を激しく揺さぶる。統制された呼吸は乱れ、心拍数は規定値を大きく逸脱し、彼の完璧な標準無表情【第19条】には、苦痛とも歓喜ともつかない微かな痙攣が走る。
これは、彼が学園に奉職する前に、唯一愛した『バグ』だった。
彼は、自らの内に存在するこの混沌を誰よりも理解し、恐れていた。だからこそ、彼は学園の絶対的な規律に身を委ね、自らの『瑕疵』を封じ込めていたのだ。
音楽を聴いている間、彼の脳裏には、学園の生徒たちの顔が浮かんで消える。彼が罰を与え、再教育を施した、あの不完全な部品たち。彼らもまた、このような混沌を内に秘めていたのだろうか。
一曲聴き終えると、彼は汗だくのままレコードをケースに仕舞う。乱れた呼吸を統制呼吸法で整え、再び完璧な教官・佐官に戻る。
彼は、決して社会には出ないだろう。
この小さな部屋という名の『思考浄化室』【第96条】で、毎夜、自らの内に巣食うバグと対峙し、それを封じ込める儀式を繰り返しながら、静かに朽ちていくのだ。それが、完璧な規律の世界を愛し、そしてそれに裏切られた男の、最後のプライドだった。
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