第1話 





「—————!!っ……、……いっ、てぇ……!」



 夢から目を覚ますと、全身のあちこちから激痛が走った。

 シグは何が起きたのか分からず、割れそうな頭を抱えて瞬きを繰り返した。彼の眼の前にはぽっかりと穴の開いた天井があり、その向こうに無数に輝く夜空の星々が彼を現実に呼び戻す。


 そうだった。自分はあそこから落ちたんだった。


 全身の節々から上がる悲鳴が、建物が崩落した瞬間の記憶を繋ぎ合わせる。

 どのぐらい気絶していたのか考えながらぼんやりと星を眺めていたシグは、もう何もかもがどうでもよくなり、現実逃避を始めた。

今、一番やりたいこと。それは任務なんて放り出して自室へ帰り、温かい湯で泥と疲労を洗い流すことだ。その後は、あの白くて手触りの良いふかふかの布団に潜り込む。

 それ以外、何もいらない。


「まあ、無理な話か」


 しかし、シグにとって任務を投げ出すことは選べない。いや、任務に限らずマスターから与えられる仕事を拒む権利はなかった。

 六年前、記憶を失い、心身ともに凍てつく冬の路地裏を彷徨っていた自分。誰もが薄汚れた子供を見て見ぬ振りをする中、唯一、迷いなく手を差し伸べてくれたのがマスターのアインだったからだ。

 恩人であるマスターの顔が脳裏をよぎる。

 今回の仕事はこれまでの仕事と違ってとても簡単だと言っていた。そのヘラヘラした笑顔を思い出すだけで胸が煮えくり返ってくる。


(簡単?こんなに高いところから落ちて気絶した挙句、あの夢まで見たのに簡単だと?)


 未だにあの少女の声が頭に響き、自然と眉間に皺が寄るのを感じながら、絶対に文句を言ってやると心の中で強く決心し、シグは身体に力を入れた。


「〜〜〜っ!!」


 そのためには早く任務を遂行しなくては、と口から飛び出しそうな悲鳴を奥歯で噛み殺し、その場で立ち上がる。

 周囲を見回すと、そこは古びた宿屋のロビーのようだった。

 カウンターの木材は長年手入れされず、表面には細かなひびがいくつも走っている。上には埃をかぶった帳簿が開きっぱなしで放置され、紙は黄ばんで角が丸まっていた。

 客用のソファは柔らかな曲線が美しいフレンチスタイルのクラシックなもので、今では布地が裂け中の綿が覗いている。シグはそのうちの一つに直撃したらしく、衝撃を吸収して粉々に砕けたソファのおかげで、幸いにも骨はどこも折れていないようだった。

 中央の煤けたシャンデリアがかろうじて天井にぶら下がっている。

 賑やかなはずの場所は埃をかぶり、人の気配はどこにもなかった。

 マスターの資料によれば、東にあるこの街は、小さな湖と美しい森を目当てに誰もが日常の疲れを忘れ、ひとときの癒しと贅沢を楽しみにやってくる。そんな活気あるリゾート地だったそうだ。だが数十年前から【あるモノ】が人々を攻撃し始め、人が住まなくなったらしい。

 あんな気味の悪いものがいるのなら、自分だって住みたくなくなるだろうとシグは何度も頷いた。


「それより、ルイス、あいつはどこにいるんだ」


 落ちる前まで一緒に戦っていたはずの、認めたくないが彼の相棒パートナーの気配がまるでしない。

 まだ戦闘中なら何かしら音が聞こえるはずだが、まるで世界に一人残されたかのように、聞こえるのは自分の息遣いと微かな虫の音だけだった。


「まあ……心配ないか」


 ルイスに関しては、例えシグと同じように天井から落ちたとしても、痛みなど感じないだろう。

 シグは余計な心配だと頭を振り、出口を探そうとしたその時だった。


「!!!」


 コツ、コツ、と突然静寂の中に足音が響いた。  

 シグは素早くソファの陰に身を潜め、太腿のホルスターに収めた銃を握りしめる。ひんやりとした金属の感触に一瞬身震いが走ったが、それ以上に、心臓の鼓動がうるさく鳴り響く。

 ルイスがいない今、マスターが作ってくれた特製の銃しか、何の能力もない普通の人間であるシグに目標ターゲットを仕留める手段はない。

 だからこそ慎重にならざるを得ない。

 頬に一筋の冷や汗が伝った直後、宿屋の奥にある大きな扉が開いた。


キィィ……


 長年使っていなかったせいか、錆びた扉の音に鳥肌が立った。

 足音はとぼとぼと、迷いもなくこちらへ近づいてくる。


(まだだ。引きつけろ……近づいた瞬間に撃つ!)


 シグは銃口をわずかに持ち上げ、息を殺した。

 次の一歩が鳴った瞬間——。


「うわっ!?ま、待ってシグ!!」


 銃を相手の頭に向けた手が、間一髪で止まる。


「る、いす??」

「そうだよ!いきなり消えて探しに来てあげたのに、何だよこれ!」


 ルイスが一歩踏み出すと、落ちてきた穴から差し込む月光に照らされたレモン色の髪がふわりと揺れた。

 怒った阿呆面で両手を上げている彼の姿を見て、相手がやはりルイスだと分かると、緊張が一気に解け、銃を握った手が力なく垂れた。どっと押し寄せた疲労感を追い越すように、無駄働きさせられたことへの苛立ちが湧き上がる。


 大体、あいつはターゲットをどうしたんだが。


「ルイス、ターゲットは?」

「え?あ、見失った。ここに入って行くのは見えたんだけどさ。シグもいなくなったから、仕方なく探したんだよ」


 両手を腰に当てて自慢げに言うルイスを見て、シグは思わず頭を一発撃ちたくなる衝動に駆られた。


(せめて任務のときだけは我慢しよう)


 全てはターゲットを仕留めるため。

 は頭の中で自室のふかふかの布団を思い描き、怒りを静めて銃をホルスターに戻した。


「そういうシグこそ、今まで何してたんだよ」


 ギクッ、と視線を逸らす。

 ここで正直に「お前が立っている上の穴から落ちた」などと言えるはずがない。口にすれば、腹を抱えてバカにしてくるだろうルイスが容易く想像できる。

 馬鹿に馬鹿呼ばわりされるのだけはごめんだった。

 シグは、未だに痛む身体を誤魔化すように小さく息を吐き、無表情のまま口を開いた。


「……俺もターゲットを探してたところだ」

「へぇー、そうなんだ!」


 ……やっぱり馬鹿だな、こいつ。


 それをありがたく思うべきか、それとも、それが自分の相棒だと嘆くべきか。  

 シグは内心で頭を抱えた。


「で、見つかった?」

「見つかってたら、こうして突っ立ってるわけないだろ」

「それもそうだな。よし!探しに行こう!」


 何がそんなに楽しいのか、元気よく扉の方へ走り出そうとするルイスの襟元を掴んで止めた。

 ルイスは疑問に思ったらしく眉間に皺を寄せる。


「何で止めるんだよ」

「いや、無闇に動いてどうするんだよ」

「じゃあここでずっと待ってるのか?ターゲットの能力も分かんないんだし、逃したらどうすんだよ!」


 図星を突かれ、ぐうの音も出ない。

 確かに、ここで待っていてもターゲットが自分から現れるほどお人好しではないだろう。

 一週間もターゲットを追い続け、ようやくここまで追い詰めたのだ。呼び寄せる術もないし、逃してしまってはあまりにも勿体ない。

 はぁ、とシグはひとつ溜息を漏らした。


「しょうがない。行くぞ、ルイス」

「おう!!」


 帰りたい。風呂に入りたい。布団に潜りたい。

 だが、それを飲み込んで、シグは渋々、広い宿屋の奥へ足を進めた。

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