第4話
かち、かち、かち、たたたたた、かち。
シャワー。雨。鳥の囀りか、鶴の機織りか。
どれとも違う、細かにひたすらになにかを打つ人工的な音が鳴っていた。
重たい瞼を持ち上げると、開けた視界に映るのは、シーリングライトが消された薄暗い天井。
頭も、腰も、鼠径部も痛かった。全身がくまなく怠かった。指先ひとつ動かしたくない満身創痍。まだ、腹の中になにかが埋まっているような感覚がする。
別に処女を守ってきたつもりはないが、多少の喪失感はあった。
だがそんな衝撃的な出来事があっても、夜は明けて朝は来る。重怠い体をひっくり返して見たヘッドボードのデジタル時計が示す時刻は「06:20」。
このまま二度寝してしまいたかったが、あと十分もすればどうせ繰り返し設定しているスマホのアラームが鳴る。それに、ベッドの隣半分の空白と、先からとめどなく鳴るその人工的な音が気になってしまった。
やらかはマットレスに手をつき、体を起こす。素っ裸の皮膚から、布団がするりと滑り落ちる。
少しの間、ヘッドボードを拝むのように正座でぼうっとしてから、やらかはのっそりと体ごと後ろを向いた。
ベッドのふもとの床に、恒星が座っていた。
やらか同様素っ裸の恒星は、ベッドに向けた背を丸め、胡坐をかいた太ももの上に乗せたノートパソコンのキーを、定められた楽譜をなぞるように淀みなく打っている。液晶の青白い光に、美しく逞しい輪郭をぼんやりと照らし出している。
「なにしてんの」
「……」
「大学のレポート?」
「静かにしてください」
恒星は、つっけんどんに言った。
「……はぁ?」
やらかはぴくりと眉をひくつかせる。
人とラブホで一夜をともにしたその翌朝、しれっとベッドから抜け出しパソコンと対峙しながら「静かにしてください」とは、これ如何に。
メルヘナーやロマンチストでなくとも、面白くない気持ちになって然るべきではないだろうか。しかもこの男は、昨夜、やらかを暴きながらさんざん甘ったるい言葉を吐き散らかしていたのだ。
だから……絆されてしまった部分もあったかもしれないというのに。
やらかはむっすりとしながらベッドの上を這い、恒星の背後からパソコンを覗き込んだ。青白い光を放つ液晶に表示されているのは、文書作成ソフト。やっぱり大学のレポートか——。
「は」
そこには縦書きで、物語性のある文字列が記されていた。
それだけなら「彼にも小説を書く趣味があるのか」とか「それにしたってセックスした翌朝に全裸で書くことはないだろ」などと呆れ、怒り、奇妙がるだけで済んだ。
だが、そこにある文体は、やらかの中に湧いていたあらゆる感情を奪い去った。
「似鳥飛香」
かたり。
「分かるんですね」
機械もかくやというほど、ひっきりなしに続いていた恒星のタイピングの手が止まる。
「俺も、似鳥飛香らしい文体を意識してはいますけど。ぱっと見でわかるほど、癖がある類ではないでしょう」
それまで文学作品とほとんど縁がなかったやらかは、大学で文芸部に入り、倫太郎の隣で本を読むようになった。特に倫太郎が面白かったという作品と、倫太郎の書いた作品だけは、許される限り読み尽くした。その中で、漫画やイラストの絵柄のように、小説にも文体というものがあることを知った。
ウェイトを置く描写、文章の切り方、言葉選び。様々なポイントに作者の味が出る。中には一文も読めば見当がつくほど独自性の強い文体の作家もいるが、たしかに、似鳥飛香はその類ではない。
基本、一人称視点。感情表現に重きを置く。物語の作り方は作品による。分かりやすいハッピーエンドもあれば、終始薄暗い夏雨のような作品もある。そんなスタイルの作家は、多分、少なくない。倫太郎勧めの本の中にも、いくつかあった。
それでも、やらかは、似鳥飛香の文体だけは見極められた。そして恒星を照らす液晶に映っているそれは、彼の指先によって編まれていた小説は、最近の似鳥飛香の文体にあまりにも似すぎていた。
「……どういうこと」
「やらか先輩は、どういうことだと思いますか」
恒星も似鳥飛香の文体を見極められる性質なのか。だとして、なぜわざわざ真似て文章を書いているのか。
どういうことだと思いますか、なんて聞かれても。やらかにはさっぱり見当もつかない。
つかない、けれど。
なにか、冷たく悍ましいものがやらかの背筋を撫ぜた。ぞっとして、身が竦む。
「幽霊にでも会ったような顔ですね」
恒星が、こちらを振り向いた。
「どういうことか。分かりましたか、やらか先輩」
首が強張り縦にも横にも振れないやらかに、恒星は青みがかった瞳をゆっくりと細めた。
「先輩。あなたの目の前にいる人間は、あなたの先輩の」
冷ややかな微笑みとともに、恒星は言う。
「似鳥飛香のゴーストライターなんですよ」
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シケモク 鈍野世海 @oishii_pantabetai
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