第3話

 頭がひどく重たかった。

 水をたっぷり注いだ袋を頭いっぱいに詰め込まれているみたいに、ゆらゆら、ぐらぐらとする。

 持ち上げる瞼も重たく、開けた視界にシーリングライトの白い光がずきずきと突き刺さる。

「痛……」

 飲みすぎてしまったとき特有の、すっかり馴染みはしたもののいつまでも慣れない感覚。似鳥飛香が本を出した翌朝は、いつもこうだ。

「今、何時……」

 やらかは花屋のシフトに合わせて、アラームを繰り返し設定している。そして前日にどれだけ夜更かししていようが酔い潰れていようが、やらかがその音で目覚められなかったことはこれまでになかった。だからまだ起床時間は迎えていないとは思うが、それでも念のためにスマホを探そうと頭上に手を伸ばし、ぱたぱたと動かす——。

「ん?」

 頭上に低い棚、ヘッドボードのようなものがあるように感じるのは、気のせいだろうか。

 やらかはマットレスと敷布団を敷いた折りたたみ式のすのこベッドを寝床としており、それにヘッドボードなどはついていない……いや、おかしい。やらかが少し身動ぐだけで下からやわらかく跳ね返されるような、スプリングの感覚もある。

 ここは家じゃない。

 呆然としていると、やらかの耳に壁を隔てたシャワー音が届いた。

 は、と目を見開いたやらかは飛び起きる。頭がずきりと痛んだが、そんなことよりもと自身の体を確認した。

「服、着てる」

 一瞬ほっとしたが、見渡せば案の定、やらかはホテルらしい一室にいた。壁紙や家具はシックなカラーリングでまとめられている、が。ヘッドボードには「01:16」と表示するデジタル時計と並んで、スキンが用意されていた。少し身を乗り出せば見える玄関には、自動精算機が設置されていた。

「ラブホ……」

 バーで出会った人と何度か訪れたことはあった。寸前でやらかが「なんか違う」と拒んだため体を重ねるには至らなかったが。

 また誰かの誘いに乗ったか、誘ったか。そこの記憶なしにラブホに来たことは一度もなかったはずなのだが。痛む額を抑えながらもやもやとしていると、バスルームのドアが開かれた。

 やらかは出てきた人物を見て、固まった。

 その面影に対する衝撃をバーでも味わったことを、ようやく思い出した。

「起きましたか。おはようございます、先輩」

「おは、よう……」

「まぁ、真夜中ですけどね」

「あの」

「はい」

飛鳥恒星あすか こうせい、くん、だよね?」

「くんとか付けなくていいですよ」

 恒星はボクサーパンツだけを身に纏い、タオルでわさわさと黒髪を拭っている。バーで見たときは痩軀だと思っていたが、晒された胸や腹、腕や太ももにはそれなりに鍛えていることが分かる筋肉がついていた。

「って。バーでも言ったと思いますけど」

 恒星はゆったりとした足取りでベッドに近づくと、縁に腰をかけた。色白の素肌はしっとりと湿り、人工的な花の香りがほんのり漂う。

「先輩って、お酒飲むと記憶失くすタイプ?」

「酔うと、たまに……俺、どんだけ飲んだ?」

「俺が店に入る前は知りませんけど。入ってからは、ギブソン三杯くらい飲んでました」

「あぁ……」

 それは許容量オーバーだ。

 似鳥飛香の新刊に加え、彼の血縁に出会ってしまった乱心をアルコールで鎮めたかったのだろうが、その挙句に。

(お持ち帰りしちゃったら、意味ないでしょ……!)

 過去の自分よ、どうして酔いが覚めたときの自分を慮って行動しなかったのか。

 やらかは頭痛が加速するのを感じつつ、動揺をひた隠しながら、申し訳なさそうな笑みを繕う。

「酔って正気じゃなかったとはいえ、こんなところに連れ込んじゃってごめんね。恒星くんとは、そういうことする気ないから」

「勘違いしてますよ」

「え? ——あっ」

 瞬いたやらかは、はたと別の可能性に思い至り、耳が熱くなる。

「もしかして、酔い潰れた俺を介抱しようとしてくれただけ、的な……?」

 今思えば、その可能性だって全然あり得た。なんで真っ先にシモの方に話を持って行ってしまったのか、遊びまくっていると思われたのではないだろうか。「墓穴掘った」とやらかは内心で頭を抱えた。

 だが、そうだとしても〝恒星とラブホにいる〟という状況はやらかの精神衛生上大変よろしくない。

「うわ、勘違いしてごめんね。マジでごめん。でももう酔い覚めたから大丈夫。ホテル代は出すから、今日は解散ってことで。俺は帰るけど、よかったら、恒星くんはこのまま泊まってって。終電ないだろうしさ」

「そうじゃなくて」

 ベッドから降りようとしたやらかの腕を、恒星がしっかりと掴む。そして相変わらず、静かに落ち着いた声で、言う。

「俺が、やらか先輩を連れ込んだんですよ」

「……へ?」

 ぐるり。

 突然、視界が思いきり回転した。

 ただでさえ痛み重たい頭が揺れた気持ち悪さがあった。背中には再びスプリングに跳ね返される感覚があった。やらかの真上には、シーリングライトの逆光を受け陰った恒星の微笑があった。

「こ、恒星、くん? え、ちょ、なに、してるの」

「あなたを抱こうとしてます」

「だっ」

 ぼんやりと記憶が残っている範囲でも、恒星は口説いているのかと思うような台詞をやらかに向けていた。多少どきりとはしたが、彼の従兄とは違って口が達者なんだなと、戯れ程度に思っていた。

「いや、俺みたいなやつ相手にそういう冗談はあんまよくない——」

 よ、と。恒星の下から逃れようとしたが、やらかの両手首は恒星の手によってシーツにがっちりと固定されていた。上下左右どの方向に動かそうとしても、それなりに力を込めてみても、うんともすんとも言わない。

「お店に入って、目が合ったときから。先輩に触れたくて仕方なかったんです。これが、一目惚れってやつなんですかね? 俺、初めてです」

 恒星の顔がやらかに近づく。生温かな吐息が掛かる。

 その先で待っているものに予想がついたのに避けられなかったのは、「なんか違う」と思えなかったのは、どうしてか。

「やさしくしますね、やらか先輩」

 生まれて二十五年、はじめて知った他人の唇は、あたたかくて、やわらかくて、少しかさついていた。

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