第5話 甘露
とある登山好きの友人に聞いた話。
彼は若いころから山が好きで、日本各地の山々を標高の高低に関わらず、あちこち登り歩いていた。
当然幾度も肝が冷えるような目にはあったらしいが、その中でもこれはとびきりだ、と彼は少しだけもったいぶった。
とある、北の方の山に登ったときのこと。
険しい山ではなかったので、日帰りのつもりで大した装備はしていなかったという。
しかし、舐めていたつもりはなかったのだが下山途中で足を滑らせて痛めてしまい、動けなくなった。あたりには夕方の気配が立ち始め、気温もどんどん下がっていく。足の痛みはいや増し、座っているだけでも体力は削られていった。
あたりが薄闇に覆われるころ、なにかが彼のもとに近づくような、枯葉を踏む足音が聞こえてきた。
この上に野生動物か。彼は近づいてくるなにかを刺激しないよう、目をつむり息をひそめた。
足音は彼の目の前で止まった。舐め回すような視線を感じる。しかし不思議なことに、獣の吐息も臭いも感じなかった。
恐る恐る目を開けて、彼は仰天した。
目の前にいたのは、十にも満たないような少女だった。大きな目、白い顔。彼女は困ったような、少し迷惑そうにも見える表情で、友人のことを目を細めたり顔の角度を変えたりしながら眺めまわしていたという。
不思議なことに、少女のその見た目年齢と表情は今でもありありと脳裏に思い描ける一方で、髪型や服装などの細かいところは、靄がかかったようにあやふやなのだという。山中に似つかわしくない、唐突に表れた女の子。明らかに怪しいが、しかし人間以外の何者でもないように見えた。
彼女は無遠慮に彼を検分した後、ため息をついて首を横に振った。
「こいつはだめだ」
そういうと彼女は、山に溶けるようにいなくなった。
と、思うと、すぐにまた現れた、手にはあちこちが欠けた湯飲みを持っている。それを、彼のほうにグイッと押しやった。
飲め、ということか。
おずおずと彼が湯飲みを受け取ると、薄暮の中でもそれが薄黄色の透明な液体だということが分かった。独特の香りがする。
なんだかよくわからない者からもらった、なんだかよくわからない物だ。怪しいことこの上ないが、のどがカラカラだった彼にはありがたかった。色も臭いもまったく気にならず、即座に流し込んだという。
まさに甘露ともいうべき味が、のどを伝い落ちていった。
礼を言おうと顔を上げると、そこにはもう少女の姿はなく、持っていたはずの湯飲みもいつの間にか消えていた。
不思議なことに、しばらくすると体力が回復してくるのがありありとわかった。足の痛みも和らぎ、これなら下山できそうだと、彼は慌てて立ち上がった。そして様々な疑問はさておき、とにかく一目散に下山したのだという。
翌日病院に行くと、脛に大きなひびが入っていた。こんな状態でよく山を下れたなと、医者から呆れられたそうだ。
・・・・・・・・・・・・
「あのときの怪我の回復は、俺の中での最短記録だよ。きっと、山の神様が助けてくれたんだろうな」
彼は笑ってそう言った。
不思議な話に聞きたいことは多々あったが、わたしが一番気になったのは、少女が彼に渡したという飲み物についてだ。色と香りの話を聞くと、まるでそれは――と思い当たるものがあった。
わたしの考えていることが分かったのだろう。彼はみなまで言うなと苦笑した。
しかし、
「いやでも、あのとき出されたのが団子じゃなくて本当に良かったと思ってるんだ。あの状況じゃ、きっと食っちまってただろうからな」
と、自分から言ってまた笑った。
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