-第二十七夜- 魔法の薬

 夜も遅くならないうちに、旦那さまは団らんの席を辞しました。僕はいつもどおり、みなさまのお邪魔にならないように、旦那さまの足下に寝転がってうとうと、華咲くお話に耳を傾けていたのです。すると旦那さまは不意に口数が少なくなり、エイトフィート様の『人工知能を運用するにあたっての電力消費の課題』というお話にええ、はい、なるほど、と相槌をうつばかりになりました。

 そしていよいよ、『結局、将来はヒトによる自家発電が必要なのではないか』という結論に達したところで旦那さまは

「ヒトによる自家発電が解決出来れば、この世の問題のあらかたは解決するかもしれませんね。――ああ、申し訳ありません、今夜のところは私はこれで……皆様、ごゆっくりお寛ぎくださいね」

 とお客さま方に失礼のないように挨拶をし、椅子から立ち上がりました。その時、旦那さまの足が軽くよろめいたのを、僕は見逃しませんでした。けれども彼はそれを気取らせず、談話室を出て行きます。

 僕も、にゃあ、と皆さまにご挨拶をして旦那さまのあとを追うのでした。


 旦那さまはお部屋でお寛ぎになっていました。そうは言っても、僕らでいう、ふかふかの椅子の上で丸くなって眠りこけるというものではなく、ぐったりと椅子に沈み込んで、小さな硝子の小瓶を片手にぼんやりと宙を見上げる――それは、憂鬱にも似た寛ぎかたでした。

 僕は手頃な高さの棚にのぼり、旦那さまを眺めることにしました。僕が部屋に入ってきたことすら気づいていないのか、いつもは宝石のように輝いている赤い目は虚空を見つめたまま濁っています。血の気の失せた白い肌は、いっそう青白く、それを蝋燭の灯りが影をよぎらせていました。

 まるで、死んでしまったのではないだろうかと錯覚するほどです。

「ああ、……いるのですか?」

「はい、旦那さま」

 旦那さまの掠れた声に、僕は応えました。ぴくりと指先が動いたかと思えば、握っていた小瓶をもう一口飲んで、旦那さまは目を瞑ります。何か、苦痛に耐えているような表情をしばらくさせたあと、赤い目は瞬きをしました。

「旦那さま、それはなんですか?」

「魔法の薬ですよ」

 旦那さまが小瓶を揺らせば、その硝子細工は柔らかな光とともにきらめきました。中に、とろりとした液体が入っているのが見えます。

「薬? お体の具合が?」

「そうですね……そんなところです。でもたいしたものではありませんので」

「その薬は何に効くのですか?」

「ありとあらゆる苦痛に」

 だから魔法の薬なのですよ。旦那さまは口元に笑みを浮かべていますが、それも偽りに見えました。

 ――ありとあらゆる苦痛。

 旦那さまの言葉に僕は全身の毛がそわりとするような心地になりました。そういったものが、旦那さまの心身を蝕んでいるとするならば、どうすればよいのかを考えました。しかし僕はただの黒猫なので、この方の背中をさすったりして慰めるには、あまりに小さな手しかありません。

「――、ねえ、ずっとここにいてくださいよ」

 眠たげな声で旦那さまが言う言葉を、僕の三角の耳はしっかりととらえました。独特の香りが零れる小瓶から目をそらして旦那さまを見やれば、彼は濁った赤い目で、じっとこちらを見ていました。

 可哀想な旦那さま。もうあと少しで十月が終わるものだから、きっと寂しいのでしょう。僕も、本当はそうなのです。ハロウィンとは再会であり、離別なのですから。

「旦那さま、僕は来年もここに帰ってきますから」

「……本当に?」

「はい、旦那さま。僕はずっとそのつもりなのです」

 僕の言葉に、旦那さまは思案に耽るかのようにぼんやりとしています。今夜はずっとこの調子なのでしょう。しっとりとした革張りの椅子に身を預け、そこに荊の影を滲ませて。時折、身体のどこかで赤い目が瞬いては埋没する。獣であり、蜥蜴であり、荊を纏う蟲のような旦那さま。

 どうにもならなくなったとき、ヒトのカタチを保てなくなる、哀れな旦那さま。

「だから気に病まないでください。十一月から数えてひとまわり、そうしたらまた僕はここに帰ってきますから、どうか、この屋敷で平穏無事に過ごしてください」

「…………」

 僕の言葉に旦那さまは目を細めました。そして曖昧に頷いたあと、魔法の薬の残りを煽ったのです。

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