-第二十五夜- 鏡の中
幽霊になっても、その気になれば鏡に映るのだとギュスターヴが知ったのはこの屋敷を訪れてからだった。
色を失って透けた己の身体を鏡に映しながら、髪の毛を整える。寝癖というものは死んだ後でも作られるものらしい。
しかし、鏡というものは不思議だ。こうして平然と日常に溶け込んでいるが、どうして鏡がものをそっくりそのままに映すのかを知る人間は少ないかもしれない。
鏡は鏡だから己を映す。生きるのにあたっては、それで充分だからだ。
――じゃあ何故、ヒトに見えない俺も映るんだ?
ギュスターヴはふと思いつき、実態なき手で鏡面に触れた。透けた手の甲の向こう側、鏡の世界が見える。そうっと手を押せば音もなくすり抜け、まるで水面に手を突っ込んでいるような心地になった。
本当ならば鏡の裏から自分の手が飛び出て、虚空をまさぐっている筈だ。しかしギュスターヴは、そんな気がしなかった。今自分が手を突っ込んでいる奥に鏡の中があり、こちら側とあべこべの世界が広がっているとしたら……。
「……なにをしてるのです?」
「うおっ!?」
真後ろから声をかけられ、ギュスターヴの肩は盛大に跳ねた。そのままの体勢で振り返れば、そこには怪訝な顔をした屋敷の主が立っている。
いつのまに、いや、後ろに立ったなら気がつく筈だ。だが鏡には何も――。
「それには映りませんよ」
ギュスターヴの表情から思考を汲み取り、エリオットが苦笑いする。は? と顔を呆けさせるギュスターヴの隣に立つが、その姿を鏡面は映し出さない。
「吸血鬼ですからね、私」
「そういえばそうだったな……」
「一緒に暮らし始めた頃を思い出しそうになりましたよ。鏡に映らない私を見て騒ぐあなたは見物でした」
涼しい顔でエリオットは笑う。柘榴の実のように赤い眼差しは柔らかい。その表情を見つめながらギュスターヴは決まり悪げに手を引き抜こうとした。
「っ……」
何かが指先に触れた。一瞬の出来事だ。それはまるで冷たい肌のようだった。
「どうしたのですか?」
その様子にエリオットが首を傾げ、ギュスターヴは引き抜いた手の、指先を見つめた。まだ冷たさが、残っている気がする。
「いや……何かに触った気がした」
「……この向こうに何かが?」
客人の言葉にエリオットが鏡をまじまじと眺める。磨かれた鏡面はこちら側を寸分違わず映している。違うことといえば、反転していること、吸血鬼である自分を映さないことぐらいだろう。
「気のせいにしておく」
「それがいいかもしれません」
苦々しい顔をしたギュスターヴに、エリオットが頷く。ふと、ギュスターヴの頭に疑問が浮かんだ。
「なんで吸血鬼は映らないんだろうな。幽霊になった俺でさえ、その気になれば映るのに」
「ヒト曰く、吸血鬼には魂が無いからだそうです。あなたは寧ろ、魂だけの存在でしょう? だから映ろうと思えば映るんですよ」
おかげで身だしなみに苦労しますね。エリオットが肩を竦める。そういえば昔は彼も、しょっちゅう寝癖をそのままにしていた。
「もし、向こう側に何か――別世界があったとして、だ」
「はい?」
「……お前を仲間はずれにするなんて、碌でもない世界に違いないぜ」
死んだ俺でさえ存在させるのにな、とぽつりと呟くギュスターヴを、エリオットは軽く目を見開いて凝視した。
「鏡に向かってそんなことを言う人、初めて見ましたよ」
「……あー、今のナシ」
ギュスターヴの顔はもうずっと青白い筈なのに、どこか赤らんだような気がしてエリオットは唇を噛んだ。笑いをこらえないと、彼が拗ねてしまう気がしたからだった。
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