第十六夜 満月

 四肢で乾いた落ち葉を蹴りながら、獣が森を駆けていた。木々の間から漏れる月光は狂おしく、彼の心を囚われにしてしまっていた。己が何処に向かうのかすら知らぬまま、衝動に身を任せているのだ。

 矢のように疾く駆ける影に、栗鼠も小鳥も震え上がっているだろう。あの琥珀色の双眸に見つかれば、小さな物音すら聞き逃さないあの耳に気取られれば、命は無い。ただ満月の光を浴びながら森を駆け回る影が過ぎ去るのを待つしか無いのだ。

 獣の口には兎が咥えられていた。――哀れだ。彼も月に誘われてしまって、あの獣に見つかったに違いない。黒々とした目は既に光を失って、牙が食い込んだ白い毛並みは赤黒く滲みつつあった。

 獲物を狩り、幾分か満たされたのか、獣は脚を緩めた。森の奥深く、開かれた場所へと軽やかな足取りで向かって、ついにその歩みを止めた。

 獣は、既に息絶えたそれから口を離した。その口元にはべったりと赤黒い血が塗れていて、舌を垂らしながら、己が奪った命を凝視した。

 本能のままにそれに食らいつくかに思えたが、獣は一度、夜天を仰いだ。満ちた月を見上げ、その光が己の姿を照らしているのに気づいて彼は遠く吠える。嘆くような、誰かを呼ぶようなその声はきっと森の外まで響くだろう。しかし、誰も、獣の恐ろしい遠吠えには応えようとしないのだ。――いいえ、応えるならばただ一人。


 獣は月に吠えていた。そうするべきだと、本能が告げていた。足下で息絶えた兎の虚ろな瞳には、月が映り込んでいる。それが獣の思考に一瞬の影を作った。もしこれが、もっと別の、己にとって大切なものであったら――。

不意に、血と花が熔けあったような、微かな匂いが鼻腔を掠めた。この匂いを知っている。獣はそちらに顔を向け、音もなく現れたその影を琥珀色の双眸で睨み付けた。どこか頼りなげなヒトの影がひとつ。

 新しい獲物だと、獣は牙を剥き出しにして笑った。人影は獣の姿に叫びすらしなかった。ただ静かに、柘榴のように赤い眼差しをまっすぐに向けてきていた。

 あの眼差しを知っている。獣は一瞬、たじろいだ。相対する者の気配に、己の中から何か別の存在が浮かび上がる心地がした。思わず唸り、身体を低くする。

 人影は一言も発さずに静かに佇んで、獣をじっと見つめるばかりだった。その眼差しには慈悲や憐憫すら湛えていて、それが獣の心をひどくかき乱した。

 月明かりに獣の影が躍る。白い喉元に食らいつかんと牙を剥いた瞬間――吸血鬼はそっと目を細める。


 牙は何も捉えなかった。獣が獲物と定めた者、エリオットは一瞬のうちに黒い霧となって霧散し、間合いをとるかのように再びその輪郭を月下、露わにした。柘榴のように赤い目は、冷たく獣を睥睨している。

 そんな目で見ないでくれ――己の内側で何かが嘆いているのを感じ、沸き起こる不快感に獣は唸り声を漏らした。再び地を蹴り、エリオットへと飛びかかれば闇を引き裂かんばかりに鋭い爪を彼に振り下ろす。しかしそれが青白い肌を裂くにはいたらなかった。

「ダニエル君」

 薄い唇が、友人の名前を呼ぶ。その瞬間、獣は心臓を鷲掴みにされたような気がした。

 そうだ、俺は――あれを八つ裂きにしなければ。違う、やめてくれ。腹から臓物を引きずり出し、野ざらしにしてやる。強い衝動に駆られ、獣は咆吼した。獣の影が踊り、黒い霧が舞う。

 爪が閃いた瞬間、エリオットは肩の違和感に気がついた。ぱっくりとそこが裂けて、血が溢れている。どうやら掠ったらしく、思わず舌打ちをした。白いシャツに滲む赤を目にして、獣は一瞬、たじろいだがすぐにその気配も失せた。

「ああ……このくらい大丈夫ですよ。すぐに治ります」

 一方、エリオットは夜天に浮かぶ月の輝きがいっそう強まっていることを感じ取っていた。もうすぐあれは完全に満ちるだろう。そうなる前に、どうにかして目の前の友人を鎮めなければならない。それが彼自身の望みであり、この地に住む吸血鬼の責務だった。しかし、魔が差す十月のせいか、獣は易々と屈服しそうにない。――ハロウィンも近い。あまり傷つけたくないというのに。

「まあ少しぐらいは平気でしょうけど……」

 古い言葉がエリオットの唇から紡がれる。音もなく獣の四肢に黒い荊が巻き付いた。棘が脚に食い込み、短い悲鳴があがる。地に括り付けられた獣は、動けないようだった。

 生温い、湿った風が吹いてきた。不意に、月のせいで明るかったはずの夜空が陰り、それに気づいたエリオットは微かに安堵した。雲が月を遮り、その光を弱めている。今が好機だ。

 四肢を戒められた獣は憎悪に呻き、少しでもエリオットが近づけばその喉元を食いちぎろうとしている。――風が強い。

 急いで眠りのまじないを唱え始め、吸血鬼は獣を眠らせようと試みた。身体をよろつかせながらも、獣は襲い来る眠気に抗っている。もう少しだ。

 エリオットの目論見は再び姿を現した満月、その目も眩むような月光に阻まれた。二つの影を、無慈悲な光が晒した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る