-第十夜- ドラキュラ

 あの都市の夜が夜であった頃の話だ。

 日が落ちれば、必ずカーテンを開けていた。天鵞絨のカーテンを纏めて、窓を微かにあけるのは締め切った部屋の空気を入れ換えるためだ。

 月の無い夜は街は夜闇に沈んで、月の明るい夜は部屋の俺達の輪郭を、つまびらかにした。

 俺がこいつと出会い、大通りから離れた古いメゾンの一室で共に日々を過ごすようになったきっかけは、既に海底の砂に埋もれて不明になってしまった。

 断片的な記憶といえば、こいつの血の気の少ない顔のあどけなさ、柘榴の実のように真っ赤な目。

 それと俺は俺で、世間に顔向けが出来ないような生き方をしていたことぐらいだ。

 俺たちは夜の住人だった。今と変わらず。


 冷たい指先が俺の手に触れれば、それが合図だった。

 俺たちが身を寄せ合うのはいつも窓のそば。月の明かりに照らされながら俺たちは人間の真似事をして、俺はこいつに生命を捧げる恐怖心を無理やり悦楽に変えた。

 小さな痛みが俺に触れ、俺の中で流れる血潮が破れた皮膚から溢れるのを感じた。少しずつ遠のく意識の中で、俺の母も死の間際はこんな気持ちだったのだろうか。このままこいつに全てを奪い尽くされてしまえば、こいつは来月の家賃を払えなくなって路頭に迷うのだろうなとか、そんなくだらないことを考えていた。

 力の入らない身体を、こいつに預けた。俺の背中にこいつの手のひらがそっと這う。

「これぐらいで死ぬような男じゃないでしょう、君」

 鈍い鉄の香りを滲ませながら、赤黒く染まった薄い唇が歪む。

 それを横目に、俺は小さく頷いた。

 寒い、ひどく寒い。毛布が欲しい。そんな考えばかり浮かぶ。俺たちは身を寄せ合っているというのに。

「ねえ、ギュスターヴ」

 暗がりの中で赤い瞳が輝いている。こいつも何かに飢えているような眼差しだった。血か、命か、それとも別の――俺たちがついぞ得ることの出来ないであろう、何か。

「……なんだよ」

「君のことだから、きっと心配いらないでしょうけど」

 俺に語りかける声は穏やかになっていた。あの切羽詰まった声は俺は結構気に入っているのだが、こいつはそれを恥じているようだった。

「長く生きてくださいね。長く生きて、俺に命を与えてくださいね」

 まるで伴侶が相手に願うような言葉だと、俺はこの時嗤った。随分と自分勝手で、またそれがこいつの、どうしようもなさを表していると思えたからだ。

「…………どうすっかな」

 俺が死ねばこの吸血鬼は家賃を払えずに路頭に迷う。そう考えただけで可笑しかった。血をいくらか吸われたというのに、気分が良かった。


 寒い。ひどく寒い。毛布がほしい。――がほしい。

 魚が俺の皮膚を食い破る。俺の血は海中に溶けていく。

 月の光も、陽の光も、あの赤い輝きも、ここには届かない。


 泡沫が消えて結ぶたびに、俺の――。


 俺が感じた永遠の滅びもあいつにとっては、瞬きの時だっただろう。


「今は誰の血を飲んでるんだ?」

「……はしたないですよ」

「あいにく、海の底にデリカシーを忘れてきたんだ」

 呆れた顔をさせるエリオットの横で俺は笑った。五十年ぶりに再会した吸血鬼は、ちょうど自室の椅子でくつろいでいる所だった。

「今は、これだけを飲んでいます」

 エリオットが指したのは傍らのテーブルに置かれたティーセットだった。

 ティーカップには紅茶が満たされている。一目ではそれが血液入りの紅茶だとは分からない。

 この吸血鬼は人の肌から血を飲むことをやめたという。

 俺は驚いて、あやうく身体を薄くしかけた。

「おい、どういうことだ」

「紅茶に輸血袋の血を何滴か。なかなか悪くないですよ」

「生き血は?」

「…………飽きてしまって。理由なんてそれぐらい」

 エリオットの声色には、何かを耐えているような気配が滲んでいる。

 こいつならば誰だって喜んで血を捧げるだろうに、やせ我慢をしているのが俺には理解出来ない。

「なんで、いつから……」

「さあね、忘れました。あなたと別れた後、路頭に迷った事だけはしっかり覚えていますけど」

 エリオットは唇を歪めて笑った。

 あの当時でも血の気がないと思っていたが、今では更に白く、病的だった。それが俺には悔しい。思わず唇を噛み、彼を軽く睨んだ。

 もはやこの身は幽霊だ。痛みは感じなかった。

 そんな俺にエリオットはあの日々から変わらない眼差しを向けて、こう言った。

「君が長生きしてくれれば、良かったのですが」

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