第三話 父の亡霊と最後の賭け


 ​潮が引くように、人々は去っていった。


 数日前まで、ひっきりなしに鳴り響いていた電話は沈黙し、熱狂的な支持者でごった返していた選対本部は、まるで廃墟のように静まり返っていた。

 誰もいないオフィスには、手付かずの資料と飲み干されたコーヒーカップだけが虚しく残されている。


 ​海道隼人は、その静寂の真ん中で、一人ガラス窓の外に広がる灰色の都市を眺めていた。

 コントロールできると思っていた全てが、指の間から砂のようにこぼれ落ちていく。

 もはや、彼の周りには誰もいなかった。


 ​彼は、誰にも告げずにエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。

 そこは、まだ父の威光が色濃く残るグループの心臓部。


 重厚なマホガニーの扉を開けると、広大な会長室が彼を迎えた。


 ​壁に飾られた、父・海道壮一郎の肖像画。


 油彩で描かれた父は、鷲のような鋭い眼光で、闖入者である息子を見下ろしていた。

 その目は、まるでこう問いかけているようだった。


『お前に、この椅子に座る覚悟があるのか』と。


 ​隼人は、父の亡霊にずっと苛まれてきた。


『破壊者』『独裁者』と恐れられた父。


 抵抗勢力を容赦なく切り捨て、血も涙もないと罵られながら、傾きかけた帝国をたった一人で再生させた絶対的なカリスマ。


 父の周りには常に敵がいたが、同時に命を懸けて彼に尽くす鉄の結束を誇る『親衛隊』も存在した。

 父は孤独だったかもしれないが、決して孤立してはいなかった。


 ​ひるがえって自分はどうだ。


『対話』と『団結』


 そんな耳障りの良い言葉を掲げ、父とは違う理想のリーダー像を演じてきた。

 しかし、その理想に集まってきたのは、本当に自分の信念に共鳴した仲間だったのか。

 それとも、海道家の跡取りという血筋と、約束された勝利の蜜に群がっただけのハイエナの群れだったのか。


「……結局俺は、あんたの七光りで神輿に乗っていただけの、ただの坊っちゃんだというわけか」


 隼人は、肖像画に向かって自嘲気味に呟いた。


 父に一度も褒められたことのない記憶が、心の古傷のように疼いた。


 ​その頃、都内の老舗ホテルのバーカウンターで、ジャーナリストの長島は、琥珀色の液体が揺れるグラスを傾けていた。

 彼の向かいに座っているのは、海道グループの古参役員の一人。

 決起集会で、隼人に冷めた視線を送っていた男だった。


「壮一郎さんは、偉大な外科医でしたな」


 男は、静かに氷を弄びながら言った。


「会社という身体の、腐りきった部分を、自ら悪役となって容赦なく切り捨てた。

 手術は手荒で、多くの血が流れましたが、おかげでこの会社は生き延びたのです」


 一呼吸置いて、男は深くため息をついた。


「しかし、隼人くんは違う。 彼は、健康な身体に『団結』という名の甘い毒を注射しているだけだ。 一時的には心地よいかもしれないが、組織は免疫力を失い、内側からゆっくりと腐っていくでしょう」


 長島は、黙って男の言葉に耳を傾けていた。

 それは、これまで誰からも聞くことのできなかった、帝国の核心を突く言葉だった。


「昔、ある政治家が『自民党をぶっ壊す』と言って、結果的に党を延命させましたな。

 ……皮肉なことに、壮一郎さんもそうでした」


 男はグラスを置き、長島の目を真っ直ぐに見据えた。


「隼人くんは、その逆だ。

『グループを一つにする』と叫びながら、彼はこの会社を、その手でぶっ壊しているんですよ」



 ​ ── 再び、会長室 ──


 隼人がつけたテレビのニュースが、最新の情勢調査の結果を伝えていた。


『……ステマ疑惑で支持を大きく落とした海道隼人氏ですが、長年グループを支えてきた役員層からの支持は根強く、依然として僅差でリードを保っている模様です』


 ​逃げ切れるかもしれない。


 このまま口を固く閉ざし、嵐が過ぎ去るのを待てば、会長の椅子は手に入る。

 側近たちもそれを望んでいるだろう。

 勝利さえすれば、雑音などいずれ消え去るのだ、と。


 ​しかし、隼人の心は鉛のように重く、少しも動かなかった。


 虚像の王として、誰も信じられないまま、父の椅子に座ることに一体何の意味がある?


 父の亡霊に嘲笑われながら、疑心暗鬼の城で孤独に朽ち果てていくのか。


 ​……冗談じゃない。


 ​彼はテレビを消すと、内線電話の受話器を取り、震える指で牧村れんを呼び出した。


「……緊急記者会見を開く。すぐに手配しろ」


『か、会見ですか!? 今、何を話されるというのですか!下手に動けば…』


 狼狽ろうばいする牧村の言葉を、隼人は遮った。


​「すべてをだ」


 ​ その声には、破滅を覚悟した者だけが持つ、不思議なほどの静けさが宿っていた。


 虚像の自分を殺し、裸の人間として最後の賭けに出る。

 父が遺した黄金の玉座ではなく、自らが立つべき場所を、この手で見つけ出すために……


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