6
大浦天主堂。坂の上に建つその白い教会に、ぼくはムイと一緒に行ったことがある。たしか、彼女が亡くなる一ヶ月前のできごとだったと思う。
当時、彼女の病はかなり進行していたのだが、たまたま体調がよくなり、医者から外出許可が下りたことがあった。
彼女の両親は久々に自宅へ戻るよう勧めたが、しかし彼女はそれを断って、ぼくとともに出かけたいと申し出た。のちに葬儀の場で彼女の母から聴いたところによると、それは彼女が短い人生のなかで口にした、ただひとつのわがままだったらしい。
ムイがそのような申し出をしたこともそうだが、もっと驚くべきは、彼女の両親がそれを承諾したことだった。なぜならぼくは、彼女の両親とは見舞いに行った際に鉢合わせたことがある程度で、ほとんど面識がなかったからだ。そんなよく知りもしない少年に、両親はどうして娘を預けることを決めたのか、そのときのぼくには理解できなかった。しかしいまになって考えると、二人はムイとぼくが単なる友人以上の関係にあると思っていて、そう遠くない未来に死を迎える娘に、最初で最後の恋をさせたかったのかもしれない。
とにもかくにも、十月初旬の秋晴れの日、ぼくらは二人だけで出かけることとなった。
その日は珍しく気温が上がり、街には半袖姿も数多く見られた。ムイも病院を出るときには上着を羽織っていたものの、両親の目を離れるとすぐワンピース姿になって、上着をくしゃくしゃと丸め始めた。
「そんなことをしたら、しわになってしまう」
ぼくが上着を預かると、ムイは小さな子どもみたいに、無邪気な笑みを浮かべた。
街では『くんち』と呼ばれるお祭りが行われており、大通りに出たぼくたちを大きな龍が出迎えてくれた。
「あの龍はなに」
祭りに来たことがなかったムイは、何人もの男たちによって操られる緑色の龍に興味津々だった。
「あれは
龍踊りをはじめとする出し物の数々は、もともと街の神社に奉納されるものであった。宗教が信仰を失ったいまとなっては形式的に行われる演目に過ぎないが、それでも毎年、エンターテイメントとして見物客を楽しませている。
「なんのための踊りなの」
「起源は雨乞いの踊りらしい」ぼくは龍の目の前に輝く玉を指さした。「ほら、龍が玉を追っているだろう。あの玉が太陽と月を表していて、それを龍が呑みこんだとき、雲が空を覆い雨を降らせるんだ」
「へえ。そんな意味があるのね」
ムイはそう言って、玉を追う龍の躍動をいつまでも見つめていた。それは単なる物珍しさゆえではなく、彼女はたぶん、龍踊りが発揮する前時代的な信仰の名残りに見惚れていたのだと思う。誰もが迷い、苦しみ、願う。そして悲しみを、怒りを、喜びを、隣人と共有する。そんな信仰の形を、彼女は望んでいたのだ。
龍を見送ったあと、なにをすればよいかわからず手持ち無沙汰になっているぼくに、ムイは、教会へ行きたい、と言った。
「教会かい」
「そう、教会。この近くにあるって、母さんに教えてもらったの」
「この近くに、ね」
教会。その単語に初めはピンと来なかったが、すぐに坂の上の白い教会のことを思い出した。
「ひとつ、心当たりがある。行くかい」
「ええ」
ムイは口の端を吊り上げ、嬉しそうに頷いた。
教会は波止場と反対方向にあり、ぼくはムイの手を引いて、教会へと続く石畳の坂をのぼり始めた。
すでに昼時を過ぎ、太陽が水平線に沈みかけていた。
「夕日が綺麗ね」
ムイは坂の半ばでふと立ち止まり、うしろを振り返った。半分ほど沈んだ夕日は海原を鮮やかなオレンジ色に染め、港を出たばかりの貨物船が、黒く影絵のようになって海面を滑ってゆくのが見えた。生まれてからずっと長崎にいるぼくにとってそれらは見慣れた風景であったが、そのときだけはいつもと違い、新鮮で、本当に、綺麗だった。
「もう少し眺めていようか、ムイ」
しかし、ムイは首を横に振った。
「いいえ、行きましょう」
ムイの足取りは想像していたよりもずっと軽かったが、ときおり身体から力が抜けてよろめくことがあり、そのたびにぼくは彼女の肩を抱きとめなければならなかった。
もとより華奢であった彼女の体躯は、病のせいでよりいっそう細く、脆くなっていったようだった。
「いやだわ、また。ごめんなさい」
何度目かのよろめきのあとで、ムイは苦笑した。その痛々しい笑顔を、ぼくは直視していられなかった。
坂の上にある大浦天主堂は江戸時代の末期に建てられた歴史ある教会だったが、いまは管理する者もない、見捨てられた遺構と化していた。アプローチの階段の先にある聖母の像は風化して朽ち果て、天主堂の扉は施錠もされぬまま放ったらかしだ。
重たい扉をゆっくり開けると、埃っぽい空気が鼻を刺した。
天井が高く、広々とした堂内には、ステンドグラスを通じて夕日が差しこんでいた。赤や青、緑に黄色。色彩鮮やかな光の束がくすんだ壁や床を染め上げ、忘れられた宗教の輪郭をひめやかに照らし出していた。
「これが」隣にいるムイが、ぽつりと呟いた。「私の求めた光」
彼女は祭壇の前で跪き、両手を固くあわせて、絶滅した宗教の
「天にましますわれらの父よ、願わくは御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを」
そして、彼女はこちらを振り返った。
「ずっと、願っていた。個人的な神の消滅を。抑制された魂の開放を。そして、大切な者との、魂の触れ合いを」
「ムイ」
ぼくは肩を震わせる彼女のもとへと駆け寄った。
彼女は沈む声で言った。
「でも、私にはもうそのための力がない。いまの私には、あなたと魂の話をすることさえままならない。できるのは、ただ、祈ることだけ」
倒れこむ彼女を抱きかかえたぼくは、預かっていた上着を、細い身体にそっとかける。彼女は苦悶に歪んだ顔をこちらに向け、ありがとう、と言った。それは打ちのめされた者の顔だった。現実に、打ちのめされた者の。
「冷えてきた。早く帰ろう」
ぼくは彼女の身体を支えながら、来た道を戻っていった。彼女はもっとここにいたいとねだるかに思われたが、意外にもされるがままに歩き出した。日はすでに沈み、海は黒く染まっていた。先ほどまで遠くに聴こえていた祭りの音も消え失せて、沈黙が心細さをかき立てた。
病室に戻るまで、彼女もぼくも言葉を発しなかった。言葉を不要としていたわけではなかったが、かといって必要な言葉が思い当たらなかったからだ。ただなんとなく、二人の別れがすぐそばに来ているのだという予感だけを共有していた。
この日以降、彼女はこれまでのように饒舌になることも、悲しみに暮れることもなくなった。まるで本物の悟りを開いたかのごとく、すべてのものごとをあるがままに受け入れ、慈しむ寛容さを、彼女は自らのなかに見出したのだ。あれほど嫌がっていた補助コンピューターによる魂の抑制も、個人的な神と信仰も、このころの彼女にとっては愛しさの対象となっており、それは彼女が死を迎えるまで、変わることはなかった。
久方ぶりに見上げる石畳の坂道は、記憶の奥に残るおもかげと同じで侘しかった。ただひとつ異なる点といえば、いまが夕暮れ時ではなく明け方であることくらいだろうか。
青森から福岡に飛び、夜行リニアに乗って、なんとか日が昇る前にここへたどり着くことができた。
腕時計を確認すると、時刻は五時の手前だった。頃合いか。ぼくは補助コンピューターの通信状況をモニタリングする。コンディション、オンライン。
天部シキ博士が仕上げたコンピューターウイルスと、ぼくが作成した報告書を受け取った布施ゼン室長は、水面下で各国の上級倫理官たちに働きかけ、ウイルスの拡散ルートを確保してくれた。なにせこれからやろうとしていることは、はたから見れば世界規模のサイバーテロ。終身刑を免れない重罪なのだ。表立って活動するわけにはゆかなかった。
ルートの確保には、かつて戦場でともに戦った者たちも協力してくれた。ガダルカナルで仲良く泥水をすすった者や、中央アフリカでともにサーバーを回収した者。懐かしい顔ぶれがそろっていたが、嬉しかったのは、ナイジェリアで一緒だったトムとエマが手を貸してくれたことだった。それから、トムがまだ砂まみれのサーバーマシンを持っていたことも。
リツが言ったとおり、人生とは不思議なものだ。孤独に打ちひしがれたはずのこの身に、まさかこんなにもたくさんの人間が手を差し伸べてくれるとは、夢にも思わなかった。それも、単に助けになってくれるのとはわけが違う。彼らはともに一か八かの賭けに乗り、重罪を犯してくれる同志なのだ。
『準備は整った。予定どおり、午前五時ちょうどに拡散を開始する』
布施室長から最終確認のメールが届き、視界の隅にウイルス拡散までの残り時間が表示される。それは個人的な神が死に、悟りのゆりかごが壊れる瞬間までのカウントダウンだった。この数字がゼロになるとき、抑制されていた魂は解放され、人間は純粋な人間として生まれ変わるのだ。
ムイが望んだ瞬間が、もうすぐそこまで迫っていた。
「目覚めのときが、来た」
ついにカウントがゼロになり、ウイルスが世界じゅうに拡散される。上級倫理官専用のチャンネルには即座に速報が流れ、各コンピューターメーカーのメインサーバーの損害状態が掲載される。それと同時に全上級倫理官に緊急対応要請が出されるものの、すでに手遅れだ。拡散から五分と経たぬうちにほぼすべてのメーカーがサーバーを乗っ取られ、ぼくの補助コンピューターもオフライン状態となる。
視界に映っていたさまざまなアイコンやウィンドウがいっせいに消えてなくなる。上級倫理官専用チャンネルへのアクセス失敗。インナーカンバセーション、実行不可。知の恒常性プログラム、作動停止。補助コンピューターのほぼあらゆる機能が動作しないことを、この目で確かめる。
涅槃の時代は終わった。魂は解き放たれた。個人的な神は死に、人は信仰の対象を、形而上の世界から引きずり降ろさねばならなくなったのだ。
ぼくは深呼吸をし、空を見上げる。明け方の白い空が眩しい。これが本当の光。魂の輝きなのだろうか。いまひとつ実感がわかないでいたが、それでも達成感に似たある種の清々しさが、胸いっぱいに広がってゆくのが感じられた。
やがて坂をのぼりきると、見覚えのある古びた白い教会が現れ、懐かしい記憶が甦った。ああ、戻ってきたのだと、心のなかで呟きながら、アプローチの階段を進み、大きな扉のノブをつかむ。
この奥にムイがいる。そう思うと、両手に力をこめるのには勇気がいったが、もう後には退けなかった。
首を左右に振って迷いを捨て、扉をゆっくりと開ける。明け方の淡い光の差しこむ堂内には朽ちた木製の椅子が並べられ、その向こう、祭壇の前に、白装束に身を包んだムイのうしろ姿があった。
扉の音に気づいた彼女がこちらを振り向く。
「信じていたわ。あなたなら、来てくれるって」
彼女が浮かべたのは、死の間際に見せたのと同じ、聖母の笑みであった。
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