瞼をゆっくり開くと、先ほどまでの広大な砂漠とは対照的な、狭く息苦しい部屋の風景が目の前に現れた。耳の奥に鳴っている夜風の残響は薪の燃えて弾ける音にかき消され、室内にこもる熱気が呼吸をやや不自由にさせる。


 椅子に深くもたれたまま正面を見据えると、天部博士がデスクトップパソコンに向かっていた。こちらが目覚めたことに気づく気配はなく、キーボードを忙しなく叩いている。


 ぼくは未だまどろみのなかにあるかのようにうっすらと開かれた目を何度かしばたたかせると、口を開いた。


「博士」


 その声に、博士は驚いてこちらを振り向く。


「おお、目が覚めたか。具合はどうだ?」

「頭がとても重たい。まるで首から上だけが鉛になったみたいだ」

「補助コンピューターに負荷がかかったのだろう。このデスクトップと接続したまま仮想現実フィールドにログインしたからな」


 博士はグラスに水を注いで寄こした。


 それを一気に飲み干すと、冷たさが全身を駆け巡るのを感じた。


「いま、きみが仮想現実フィールドで出会った往生君の心理グラデーションを解析している。それが終わるまで、身体を楽にしていなさい」

「ありがとうございます」


 空になったグラスを博士に預け、ふたたび椅子の背にもたれる。水のおかげでいくぶん頭も冴えてきて、先ほどリツと交わした会話の内容も鮮明に思い出された。ぼくは胸の奥にたくさんの温もりと、それからひと匙の冷たさを感じた。この感覚は、そう、前世紀の小説にしばしば出てくる、切なさというものだろう。あの、愛しさの影のような感覚。それを味わうということは、やはりぼくはリツを心から愛していたに違いなかった。


「往生君が用意した仮想現実フィールドはどんなところだった?」博士は言った。「フィールド内の様子を覗くことはできたのだが、やらなかった。彼女が話し相手に選んだのは君だったからな」

「ナイジェリアの砂漠でした。ぼくとリツが出会い、一緒に任務を行った土地です」

「そうか」


 博士はそれ以上のことを訊いてはこなかった。たぶん彼はぼくとリツの関係性にうすうす気づいており、あえて詳しいことを訊かずにいるのだろう。それはぼくら二人の魂の触れ合いを、二人だけの秘密にすることを許す行為だった。


 博士のその心遣いに感謝し、思わず口元を綻ばせた、まさにそのとき、パソコンから電子音が鳴った。


 博士は言った。


「解析が終わった」

「結果は?」

「待っていなさい。いますぐ生前のグラデーションと照合する」


 ディスプレイ上に二つの帯状の図が表示される。何十、何百の色によって構成されるその図が、リツの心理パターンなのだという。ぼくにはどの色がどのような性質を表しているのかまるで見当がつかないが、鮮やかな色彩を目の当たりにして、ただ、綺麗だと思う。


 博士がエンターキーを押すと、二つの図がディスプレイの中央に向かって移動し、重なり合い、やがて、照合完了の文字が現れる。


 OKのコマンドがクリックされ、結果が別のウィンドウに表示される。


『適合率一〇〇・〇%』


 その文字を見た博士は一寸、驚きの表情とともに身を乗り出したが、すぐに無表情に戻り、深い溜め息をついて背もたれに身体を預けた。


「二つの心理グラデーションが完全に一致した」ぼくはディスプレイに釘付けとなったまま言った。「ということは、つまり……」

「転生した往生君と生前の彼女は同一人物ということだ」博士は放心したような顔つきをして答えた。「脳と機械のエンタングルメントなしに人間の意識が存在し続けることを彼女は証明した。私の理論は、否定されたのだ」


 これで世界じゅうの人々を救うための道が開かれた。興奮に輝く瞳でぼくは博士を見たが、しかしディスプレイに向かう博士は、抜け殻のように力なく座っていた。


 そう。彼は脳と機械のエンタングルメント理論……その証明のために自由も、家庭も、人生さえも捧げてきた人だ。この結果を素直に喜べないであろうことは、考えるまでもなかった。


「その、博士……なんと言ってよいのか……」


 かけるべき言葉を選びかねていると、ふいに博士の穏やかな顔が向けられる。


「違うんだ、有情君。私は落胆しているのではない。むしろその逆だよ」


 それは優しげな口調であった。


「エンタングルメント理論は、私が脳と補助コンピューターの相補性に関する研究を行っていた過程で、偶然的に発見された仮説でね。学術誌に簡易的な論文を掲載したときも、まさかあれほどの反響が起こるとは思っていなかった。人間の意識は補助コンピューターなしに存在し得ない。ネットワーク崩壊の危機に瀕した社会にとって、それは破滅的な仮説であったはずだ。にもかかわらず、多くの人々はエンタングルメント理論を支持し、その証明を私に求めた。そのとき気づいたよ。世間に諦めの空気が蔓延し、誰もが絶望を欲しているのだということを」

「まるで末法思想だ」


 ぼくのその言葉に、博士は頷いた。


「そう。事実、エンタングルメント理論は終末論的な意味合いとともに広まっていき、世間は私を世界的権威にまつりあげた。絶望の大波に呑まれたようだった。私ひとりでは流れを変えることなどできなかった」

「だから、エンタングルメント理論の研究を続けてきたと?」

「うむ。それ以外に選択肢などなく、また、私もいつからかエンタングルメント理論に魅了されていたからな。そうして気がつけば、理論を証明することが生きる意味とさえ思うほどになっていた」

「でも、あなたは研究をおやめになった」

「年を取るとな、偽物の悟りでは自分を誤魔化しきれなくなるのだよ。五十を過ぎたころからだろうか。本当の私は、なにをしたかったのか。エンタングルメント理論を証明して、世間に絶望を与えることが望みだったのか。そんな問いかけが頭のなかをよぎるようになり、疑念はやがて研究を行う手を止めた。そうなると、もう駄目だった。いちど止まった手はどうやっても動いてくれなかった。だから私は身を退いた。すべてを投げ出し、この終の棲家に逃げこむ以外に、方法がなかったのだ」


 それから博士はリツの心理グラデーションに視線を移した。


「科学者には正義が必要なのだ。世のなかをより幸福にするために自らの人生を捧げる。そういう正義の心が。私には正義を貫く強さがなく、また、その機会も与えられないものとばかり思っていたが、どうやらそうでもないらしい」


 博士はディスプレイにそっと手を触れる。


「このパソコンのなかには、往生君がつくったウイルスのサンプルが保存されている。一晩の時間をくれ。明日の朝までに、完璧なものに仕上げてみせよう」


 ふたたび正義を取り戻した科学者の、力強い声が響いた。




 冬。山々はうっすらと雪の化粧を施し、黒々とした雲が夜空を覆い隠す。季節ごとの花が咲いていた御堂の庭もこのときばかりは色味を失い、慎ましく眠りについている。


 庭に立っていたぼくは、御堂のほうを振り返る。すると縁側に腰を下ろしていたわが師、空は頷き、草履を履いてゆっくりと立ち上がった。


 ぼくは師とともに庭のなかを進む。向かった先はカシワの木の根元であった。


 春の日、師がこの木を見せてくれたときのことを思い出す。カシワの葉は枯れても枝についたまま冬を越すという師の言葉どおり、たくさんの葉が枝にしがみついたまま、冷たい夜風にふるえていた。


「私は過去からの逃亡者でした」ぼくは枯れ葉を見つめながら言った。「多くのものから目をそらし、逃げ出して、その結果すべてを失ってしまいました。もう自分にできることなどなにもない。そう思っていました。でも違った。葉はまだ残っていた」


 そして、師のほうを振り返る。


「あなたがこの木を見せてくれた理由がようやくわかりました」


 夜空を覆っていた雲が途切れ、その隙間から白い月の光が差した。その光に呼応するように、胸ポケットのなかが輝く。


 ポケットの中身は、猿島でムイが放った弾丸だった。ぼくの脇腹から摘出したものを、リツがくれたのだ。それがいま、手のひらの上で眩い光を放っている。


 弾丸を目の高さに持ち上げてスキャニングすると、地図データが表示される。示されている場所は、大浦天主堂。故郷長崎にある古い教会だ。


 ムイだ。ここに、ムイがいる。


「道は示された」


 師の言葉にぼくは頷いた。


「行きます。六道ムイのところへ」


 その答えを聴いて、師はほんの少しだけ目を細めた。




 奥にある寝室を使わせてもらい、夜を明かしたぼくは、明け方、博士に呼ばれてリビングへと出た。


 完成だ。博士はそう言って、こちらの補助コンピューターに圧縮ファイルを送った。おそらく一睡もしていないのだろう、彼の目の下にはくまが浮かんでいた。


「往生君が作成したサンプルに、各コンピューターメーカーの設定変更用パスワードを組みこんだものだ」


 ぼくは受け取ったファイルを脳内に保存した。


「これを使えば、すべての補助コンピューターをオフラインの状態にできるのですね?」

「うむ。機構の持つネットワーク網を使えば、拡散させるのは容易いだろう」

「わかりました。私の上司に協力を仰ぎます。彼ならば、われわれの考えもきっと理解してくれるはずだ」

「よろしく頼むよ」博士は頷いて言った。「それで、きみはこれからどうするのかね」

「長崎に向かいます。そこに、会わなければならない人がいるのです。その人はぼくを待っている。鉄の身体をひさげて、独り、待っているのです」

「そうか。ならば急いだほうがいい。今朝から私の知の恒常性プログラムにシステム障害が生じている。おそらく、ネットワークの限界がすぐそこに迫っている」

「わかりました」ぼくは手を差し出した。「ありがとうございます、天部博士。あなたに出会えて、本当によかった」

「それはこちらの台詞だよ。きみのおかげで、私はようやく研究者として人の役に立つことができた。礼を言う。本当に、ありがとう」


 博士と固い握手を交わし、家をあとにする。雪が降り続いていた空はすっかり晴れて雲ひとつなく、背後から吹きつける冷たい風も、いまはぼくの背中を後押ししてくれているように思われた。


 ポケットから取り出した弾丸をかざすと、日の光が反射して輝く。ムイ。ぼくはきみとの約束を果たそうとしないどころか、それを呪いだと感じていた。だからきみにこの弾丸を撃ちこまれたとき、報いを受けたのだと、そう思った。そして、きみはもうぼくのことを見限ってしまったのだと……。でも、それは違った。きみはもういちどチャンスをくれた。そのチャンスに、ぼくは応えたい。


 待っていてくれ、ムイ。今度こそ、きみとの約束を果たしてみせる。

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