パスワードを入力し、仮想現実フィールドへと入ったぼくを待っていたのは、一面に広がる砂の海だった。


 日が沈み、満天の星空にさらされた砂漠はほのかに白く輝いて、冷たい夜風にさざなみを立てている。


 忘れるはずがない。ここはナイジェリアの砂漠だ。ぼくは久方ぶりに見る景色に目を細める。この空と砂の輝きも、風の冷たさも、埃っぽい空気もすべてあのときと同じであり、それらすべてがこの心をふるわせている。嬉しいという言葉だけではいまの胸のうちを語りきれず、かといって悲しいという言葉だけでも十分ではない。そうしたさまざまな感情が複雑に入り混じったものとしての懐かしさが、全身に広がっていた。


 懐かしさというものは、人の心を沸き立たせ、そして少しばかり憂鬱にもさせる。その効果は本でしか知らない前世紀もいまも変わらないだろう。ただ、いまの人間のほうが、そうした機微や情趣といったものに少しだけ疎いようではあるけれど。


 なだらかな砂丘の上にぼくはひとり立っており、あたりを見渡してみると、南西へ少し下ったところに大きな岩が顔を出していた。その岩へと近づき、裏側にまわってみると、機構の戦闘服を着たリツがしゃがみこんでいるのを見つけた。


 こちらを見上げる彼女の顔はとても穏やかで、まるで本物の悟りを開いたかのように、透きとおった眼差しを放っていた。


「来てくれたのね」なかなか言葉を発せられずにいるぼくへ、彼女は語りかけた。「待っていたわ」


 穏やかだった彼女の顔に、ゆっくりと笑みが浮かべられる。


「きみは……」ぼくはおそるおそる訊ねた。「本当に、あの往生リツなのか」

「それを確かめるために、ここへ来たのでしょう」


 リツはからかうような、それでいて試すような、少し軽い口調で言った。耳元の髪をかき上げながら。やはり、いつものリツだ。


「もう会えないと思っていた。きみはぼくとの面会を拒んでいたし、それに……」

「私はもう死んでいるものね。でも、いまこうして話をしている」


 ぼくはどう反応したらよいのかわからなかった。冗談めかして笑うべきだろうか。それとも神妙な面持ちで頷くべきだろうか。こういうとき、物事を単純に考えきれない人間というのはつくづく損なものだと、そんなことを考えていると、リツが少し呆れたような顔をして言った。


「変な気分でしょう? 私もなの」彼女は自分の左隣を指さした。「こっちに座ったら?」


 ぼくは促されるまま彼女の隣にしゃがみこみ、遥か彼方の地平線を望んだ。宵闇のせいで地平と空との境は曖昧となり、幾万もの星明かりを着飾った夜空が、異様な存在感を放ちながら眼前に迫ってくる。それは見る者を圧倒し、そして孤独にさせる光景だった。


 ああ、本当にナイジェリアに戻ってきたのだと思った。


「この景色をまた見ることになるとはな」ぼくは足元の砂に指で絵を描きながら言った。「このフィールドはきみがつくったのか」

「そうよ。飛び降りる前につくったの。死んだら迷わずここへ来られるように、目印をつけてね。ナイジェリアの砂漠を選んだのは、個人的な思い入れが強いから。私、こうしてあなたとしゃがんで見る夜の砂漠が、いちばん好きだったの」

「ぼくもだ。ナイジェリアにいたころは、この時間がずっと続けばいいと思っていた。こうしていると、幸福というものをいちばん身近に感じられた」


 砂に描いた絵は、すぐさま風に消えてゆく。ネコの絵だった。砂漠で野宿をする夜には、必ずネコを描いていたことを思い出す。ぼくはあまり絵がうまくなかったし、それに絵はすぐに消えてしまうから、誰もそれがネコだとは気づかなかった。でもリツだけはぼくの絵を見て、可愛いネコねと言ってくれた。そのことがとても嬉しかったのを、いまでも覚えている。


「ネコ、好きなの?」


 リツはぼくの指の動きを見つめながら訊ねた。


「どうかな。子どものころは好きだった。でも、飼うのを両親が許してくれなくってね。うちにはイヌが一匹いたから」

「天然のイヌ?」

「まさか。クローンだよ。クローンのヨークシャーテリア。うちはそんなに裕福じゃなかったから」

「そう。私はイヌもネコも飼ったことなかったんだ。ずっとマンションに住んでいたから。そのかわり、ロボットをたくさん持っていた。市販のキットを組み立てたものから、自分でパーツをそろえてつくり上げたものまで」

「むかしから機械いじりが好きだった?」

「ええ、本当に」リツは笑いながら言った。「両親は困り顔だったわ。ピアノを弾かせるはずだった娘の手には、はんだごてが握られているんだもの」

「違いないな」ぼくはおかしくて、つい噴き出してしまう。「まあ、ぼくも似たようなものだ。うちの親はね、子どもに剣道やら柔道やらをさせたかったんだ。けれどぼくはどちらも長続きせず、小さなころから本ばかり読んでいた」

「あなたには剣道や柔道よりも読書のほうが似合ってると思う」

「きみだって、ピアノなんかよりはんだごてのほうがよっぽどさまになるだろうさ」

「違いないわね」


 リツは声を上げて笑った。それにつられて、ぼくも腹を抱えて笑う。そうして二人してひとしきり笑い終えたあと、ふいに沈黙が訪れた。その沈黙は、ぼくらにある話題、二人ともが避けている話題について思い出させた。


 リツは横目でこちらをちらちらと見ながら、口を少しだけ開いては閉じ、また開いては閉じを繰り返していた。なにか言いたげだが、それを自らの口から告げるまでには至らない。ためらいの石が、言葉の川の流れをせき止めてしまっている。そんな感じだった。


 このままでは埒があかない。ぼくは遠く地平線を見やり、ゆっくりと口を開いた。


「こんな話、きみが生きているときにはしたことがなかったな」

「えっ」


 リツは意外そうな顔をして言った。彼女自身がためらっていた話題をぼくがしようとしていることに気づき、動揺しているようだった。


「ぼくらはこれまでにたくさんのことを話したけれど、でも、肝心なことは話さなかった。子どものころの思い出、将来の夢、両親や家庭のこと、そして、二人のこれからのこと。そうした話を、ぼくらはほとんどしてこなかった」

「たしかに、そうかもしれない」リツは溜め息まじりに言った。「私、いまのいままで子どものころの思い出なんて話したことがなかった。でも、あなたは違う。補助コンピューターのパスワードを私に教え、脳内のすべてを見せてくれたもの。隠していたのは、逃げていたのは、私だけ」

「違う……違うんだ」ぼくは首を横に振った。「きみはこれまでに何度も大切なことを打ち明けようとしてくれた。ぼくはそれに気づいていた。そう、気づいていたのに、応えようとしなかった。きみの心の奥底を知るのがこわくて、逃げ出したんだ」


 ゆっくりと立ち上がり、岩陰から出る。月さす砂漠の夜に冷たい風が吹き、バーチャルの肉体を凍えさす。まるでこの心を挫こうとでもするかのように。


「すまなかった、リツ。ぼくが弱く卑怯だったばっかりに、きみの心を溶かしてやることができなかった」


 振り返り、彼女を真正面から見つめる。ぼくの真っ直ぐな眼差しと言葉に射抜かれた彼女は、にわかに瞳を潤ませる。


「もういいのよ、コウ。私はすでに死んだ身なんだから」

「でも、きみはここにいる」そう言って、リツのもとに歩み寄る。「きみの魂は、ここにいるんだ」


 思えば彼女だけではなく、ぼく自身もまた本心を語ろうとはしない人間だった。いいや、きっとこの世に生きるすべての人が―補助コンピューターを持ち、純粋に個人的な世界に生きるすべての人が―知の恒常性プログラムによって、本心を隠しているのだろう。なぜならば、そうすることがわれわれにとって健全かつ正常であったからだ。


 だが、それでは駄目なのだと、いまなら思う。リツを失ってしまった、いまならば。そしてそう思うからこそ、ぼくはコンピューターを介してではなく、自分の言葉で自分の気持ちを伝えようとしている。彼女の魂が、朝露のごとく落ちて消える前に。


「リツ」しゃがみこんだままの彼女の頬を撫でる。「ぼくらはすれ違ってばかりだった。寄り添い合っているように見えても実際は離れていて、見つめ合っているように思えても、本当は互いに違う方向を見ていた」


 リツはぼくの手に自らの手を重ね、こくりと頷く。


「けれど、これだけはわかってほしい。ぼくはいつもきみを探していた。きみが感じていたのと同じ苦しみを、虚しさを、ぼくも味わっていたんだ」

「コウ……」

「リツ」


 ゆっくりと立ち上がった彼女の身体を、抱きしめる。


「きみを愛している。誰よりもずっと。だからお願いだ。悲しみだけ背負って死んで行くな。きみは独りじゃないのだから」


 彼女の背中に回した腕に力がこもり、互いの頬と頬が優しく擦れる。かつて、こんなにも強く誰かを抱きしめたことがあるだろうか。こんなにも強く人間の温もりを感じたことがあるだろうか。きっとあるまい。これは孤独に縛られた二人がする、最初で最後の魂の触れ合いなのだから。


「独りじゃない、か」


 リツの瞳からこぼれ落ちた涙が、ぼくの頬を濡らす。


「人生って不思議ね。生まれながらに悟りを開いた私たちだけれど、本当に大切なことに気づくのは、すべて手遅れになってからだなんて」


 彼女は顔を引き、真正面からぼくの目を見つめて笑った。


「私もあなたのことだけを探し続けていた。そしていま、ようやく見つけた。嬉しい。冷たかった心が温もりに満ちていくのを感じる」


 それから、彼女はぼくにそっと口づけをした。


「私はこれでじゅうぶん。この温もりさえあれば、安心して先に進むことができる。でも、彼女は違うわ」

「彼女」ぼくは答えた。「ムイのことか」

「そう。彼女はいまもあなたのことを待っている。お願い、コウ。彼女をきっと見つけて」

「でも、ぼくは転生した彼女のことを信じてあげられなかった。ぼくらの絆は、もう断たれてしまったかもしれない」

「そんなことはない。魂の絆は生死の境だって越えるのよ。あなたと私がそうであったように。だから、大丈夫。彼女のことを信じなさい」


『わたくし……必ず……生まれかわるから、この世界の何処かに。探して……わたくしを見つけて……約束よ、約束よ』


 かつてムイの引用した『深い河ディープ・リバー』の一節が思い出され、感受性を取り戻しつつあるこの魂に、後悔がいまいちど約束を果たせと語りかけてくる。


 ぼくは頷く。


「わかった。必ずムイを見つけ出してみせる」

「ありがとう」


 リツはゆっくりとぼくから離れ、それと同時に、白い光が周囲のグラフィックと、二人の身体を包みこんでゆく。別れのときが来る。


「コウ」リツは言った。「いまここにある私の魂は本物だと思う?」


 それは冗談もからかいも含まれていない、心からの問いかけであった。


「そんなこと、わかりきっているじゃないか」


 その答えを聴いた彼女は、涙を拭いて満面の笑みを浮かべた。


 それが、ぼくが最後に見た彼女の姿だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る