9
冷たい長雨のなか、リツの葬儀は静かに、そして淡々と行われた。
喪主は彼女の母親で、唯一の肉親という話だった。父に先立たれ、女手一つで娘を育てあげた母親なんだそうだと、布施室長が教えてくれた。リツの経歴書に記されていたというその話をぼくはいまのいままで知らなかったが、リツのことにかんして言えばそういう秘密は少なくないだろうと思われた。ぼくらは一時的にも心の底から愛し合ったけれど、それでも心の底からわかり合えたわけではなかった。彼女の母親のことも、ぼくら二人にとっては数多くある秘密のなかのひとつに違いない。
斎場は十人が入れるほどの小さなもので、薄雲に霞む月夜のホログラフィのもと、長椅子の両端に立てられた蝋燭の炎がかすかに揺れていた。それらはすべて生前の彼女の希望に基づく仕様であった。
上級倫理官は与えられる任務の危険性から、遺言や葬儀に対する希望などを用意しておくことが多い。リツもその例にならったのだろうが、しかし彼女の場合は遺言がのこされていなかった。なぜ葬儀にかんする希望だけを記し、遺言をしたためなかったのか。その真意は定かでなく、また確かめる術もない。
葬儀はゆるやかに進み、火葬場に移され荼毘に付されたリツの骨を、母親と、弔問者の代表であるぼくとで拾った。その間、誰ひとり、リツの母親でさえも、涙を流しはしなかった。知の恒常性プログラムのせいだった。プログラムはぼくらに安らぎを与えてくれるが、その代償として悲しみを奪ってゆく。頬を伝う涙も、泣きたいと思う気持ちさえも、いまのぼくらには許されない。この抑制された魂に許されているのは、すべてのものごとを在るがままに受け入れる寛容さだけだ。
「こちらが喉仏になります」
職員が指し示す小さな骨を、母親は大事そうに拾い、骨壺に納めた。彼女の顔に悲しみの色はなく、それどころか、定められた儀式を定められた方法に則って執り行っているかような、事務的な印象さえ感じられた。
愛娘の死を、同僚の死を、かつての恋人の死を、こうもあっさりと片づけてよいものなのか。ぼくは母親の横顔を見つめながら言いようのないおそろしさを覚えたが、そのおそろしささえもすぐに補助コンピューターによって打ち消され、あとには虚しさが残されるだけだった。
秋。遥か北の御山が紅葉の
「もうすぐ日が暮れる」
御堂の隅に座る
ぼくは縁側から堂のなかに戻り、師の前に座した。
「師よ、教えてください。私はこれからどうすればよいのです?」
「それをわれに訊いてどうする」
師は視線をこちらへ移した。彼のやや白んだ瞳がぼくの顔を、わずかな変化も見逃さんとするかのようにしっかりととらえ、その注意深い眼差しにぼくは生唾を飲みこんだ。
それから長いこと二人は黙ったままで、雨が屋根を打つ音だけが、堂のなかにくぐもって響いた。縁側からは湿気を含んだ肌寒い風が吹きこみ、ぼくの首筋に鳥肌を立たせるとともに、心に張った緊張の糸を、切れよとばかり、さらに強く引っ張ってゆくのだった。
まるで針の上に立たされているかのような危うい緊張感に耐えきれなくなったぼくが救いを求める眼差しを師に向けたとき、師は溜め息をつき、ようやく口を開いた。
「これ以上、おまえを導いてやることはできん」
「なぜです。私は独りなのです。もうあなた以外に頼るものなどなにもない。それなのに、なぜ?」
「すべてはまやかしだからだ」師は低く言った。「この景色も、われ自身も」
「そんな……」
師から告げられた言葉に、絶句する。それはぼくが確かに認識していた事実であり、なおかつ
しかしその信仰の対象から、自分はまやかしだと告げられるということは、隠ぺいされた事実の構造を内側から破壊されるようなものだ。そうでなくとも……たとえばぼくが前時代の神を信仰する人間であったとしても……その神から自分はまやかしだと告げられれば、この心は深い絶望の谷底に落とされるに違いない。
「まやかしを信じてはならない。まやかしに身を委ねてはならない。いまここに降っている雨はおまえの身体を、心を濡らしはしない。本当の雨は、おまえが目覚めた場所に降っている」
そして師は立ち上がり、傘もささずに庭に出た。その小さな背中が、夕暮れどきの雨に濡れて侘しい。
師はこちらを振り向かずに言った。
「進め。ただひたすらに進め。ここに真実はない」
その言葉を合図に、視界が暗転した。
目を覚ました直後、まず感じたのは頭の重さと、それから、気だるさだった。
リクライニングチェアの背をもとの位置に戻し、机に両肘をついて頭を抱える。脳裏にはいましがた空と交わした会話がよみがえり、全身ににわかに鳥肌が立つ。
まやかし。空はそう言った。これまで信じ、従ってきた師が、そう言ったのだ。すべてはまやかしであると。たったひとりの親友であるムイに先立たれ、かつての恋人であるリツをも失い孤独のさなかにあったぼくにとって、師のその言葉はあまりにも冷たく、そして鋭すぎた。迷える者に救いを与えるのが神であるならば、たとえまやかしであったとしても、最後まで騙し続けてほしかった。
しかし師はそうしなかった。それはつまり、ぼくが心の底ではまやかしの神を、個人的な信仰を拒んでいたということなのだろうか。あるいは、孤独を追い求めていたとでも?
悶々とした考えを持て余しながら、キッチンへと向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しグラスに注いでいると、玄関のあたりから物音が聴こえてくる。
郵便だろうか。扉に取りつけられた郵便受けを開けてみると、一通のメール便が届いていた。その差出人の名前を確認した瞬間、ぼくはわが目を疑う。
『差出人:往生リツ』
なんとメール便の送り主はリツだった。消印は彼女が飛び降り自殺を図った日で、今日のこの時間に送り届けられるよう指定されていたのだ。
急いで中身を確認すると、バーコード認証用のメモリチップが一枚だけ入っていた。
認証用アプリケーションを起動させ、チップに描かれたバーコードをさっそく読み取ってみる。記録されているのは地図データで、ポイントが落とされているのは青森県上北郡野辺地町。ヤマセ吹く広大な森林地帯のまっただなかだった。
いったいここになにがあるというのか。視界に浮かび上がった赤いポイントをクリックすると、リツが記したと思しき補足説明が表示される。
『ここに天部シキ博士がいる』
天部シキ。その名にぼくは目を見張る。
脳機械学の世界的権威であり、機構が血眼になって捜していた人物であり、そしてリツの恩師でもあった男。彼女は彼の居場所を知らないと室長に話していたようだが、このポイントに本当に博士がいるのだとすれば、彼女は嘘をついていたことになる。
しかし気になるのは、室長にさえ隠し立てしていた博士の居場所をなぜぼくに教えたのかということだ。もしや博士とぼくをひきあわせることで転生者事件の展開が好転すると予想したのか。あるいは単純に、博士との出会いがぼく個人の助けになると考えているのか。いずれにしても、神にさえ裏切られたいまのぼくにとって、リツから示された道は少なからず魅力的に思われるのだった。
『進め。ただひたすらに進め。ここに真実はない』
インナー・カンバセーション中に、師から告げられた言葉を思い出す。確かにここに真実はない。ここにとどまっていても自然に事態がよくなるわけでもなく、まして真実や幸福などというものが、向こうからこんな
キッチンに戻り、グラスの水を一気に飲み干す。視界に浮かび上がった地図には、天部博士の居場所を示す赤いドットが点滅している。ここへ来い、ここへ来い、とでも言うかのように。
いまは孤独をおそれず進まねば。そういうことなのか、リツ? ぼくは地図を透かして見える天井に、力ない声で問いかける。
いつもなら利用客で賑わう羽田空港の出発ロビーも、この日ばかりは人もまばらで閑散としていた。
転生者の出現後に機構が非常事態宣言を発動してからというもの、航空機を始め各種交通機関は軒並み便数や本数の縮小を余儀なくされており、特に東京から各地方都市へ向かう航空機は日に一便や二便ということも珍しくなかった。
「誰もかれも引きこもっているのさ」
ぼくを見送りに来た布施室長は、ほとんどがらんどうのロビーを見渡して言った。
「おれたちは補助コンピューターのもたらす個人的な安らぎを無条件に受け入れてきた。自分だけの涅槃、自分だけのゆりかご、自分だけの神。そうしたものにすがって生きている時点で、おれたちはもともと精神的な引きこもりの状態にあった。それが転生者の出現に伴う混乱によって、肉体的・物質的な面に拡大したにすぎない」
「しかし転生者のなかにはサーバーを破壊し、世界を覆うネットワークの網を破ろうとする者たちがいる。もしもそれが実現されれば、人々が頼っている個人的な安らぎとやらは消え去ってしまう」
「そうだな。いや、もしかしたらすでに安らぎの崩壊は始まっているのかもしれない」室長は言った。「最近、感情を抑えるのが難しくなってきてな。補助コンピューターの故障かとも思ったが、どうやら原因はコンピューターが接続されているネットワークそのものにあるらしい」
「世界がパンクしかけている、と?」
「ああ。おまえだって感じているだろう。これまで味わったことのないほど強烈な孤独と不安を」
孤独と不安。その言葉に顔を曇らせるぼくを、室長は笑って励ました。
「そう暗い顔をするんじゃない。旅はいい。それがひとり旅ならもっといい。孤独の向こう側にあるものを見せてくれるからな」
「孤独の向こう側……いったいなにがあるのでしょうか」
「そんなものは行ってみなけりゃわからんさ」室長はぼくの肩を強く叩いた。「上の判断でおまえは実働部隊から外されているからな。この一件は休暇扱いにしてある。なあに、バカンス気分で行ってくればいいさ。それで収穫があれば儲けものだ」
「ありがとうございます。青森行きを許してくれたこともそうですが、リツから送られてきたチップのこと、上には秘密にしてくれたのでしょう?」
「気にするな。往生がほかの誰でもないおまえを選んだ。だからおれもおまえを選んだ。それだけのことだ」
ぼくとの面会を頑なに拒み続けたリツ。その彼女が、天部博士に接触するという大切な役目をぼくに任せようなどと、本気で思っていたのだろうか。メモリチップを手にしたいまになっても、そのことを疑問に感じないわけではない。しかしリツの本心はどうであれ、この旅はひとつの機会だ。真実を得るための、孤独と向き合うための、そしてこれまで目をそむけてきた様々なことに、折り合いをつけるための。少なくとも、いまはそう思って進むしかない。
青森行きの便の出発時刻を告げるアナウンスが流れ、ぼくはゆっくりと立ち上がった。
「有情コウ上級倫理官、行って参ります」
室長に背を向け、保安検査室をとおり、出発ゲートへと向かう。青森行きの便に乗る者がほかにいないのか、ゲートへ続く通路を行くのはひとりだけだった。室長の姿もとうに消え、まるで本当にこの世に独りきりとなったような気分に見舞われたぼくは、気がつけばいつか読んだ尾崎翠の『歩行』の冒頭を諳んじていた。
『おもかげをわすれかねつつ
こころかなしきときは
ひとりあゆみて
おもひを野に捨てよ』
切ない詩によって始まるこの作品は、ぼくの最も愛する一作であった。しかしどうだろう。いまのこの身には忘れるべき面影があまりに多く、歩けども歩けども、思いを野に捨てることが叶わぬような気がしてならない。
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