タクシーで技術保全機構附属病院に向かい、夜間通用口からなかへ入ると、ロビーで布施室長が待っていた。ソファーに腰かけていた彼はぼくの姿を見つけて立ち上がった。


「来たか。往生の病室はこっちだ」


 室長に案内されて二階の個室に向かうと、様々な機器に取り囲まれて眠るリツがいた。顔の左半面を含め、身体じゅうを包帯に巻かれている彼女の姿はあまりに痛々しく、ぼくは眉をひそめた。


 リツが収容されている部屋はちょうど無菌室みたいに、ガラス付きの壁によって部屋が二つにわかたれていた。


 ガラスに貼りつくようにしてリツの姿を見ていると、背後で室長の重たい吐息が聴こえてきた。


「やれるだけのことはやったが、意識はまだ戻らない。医者が言うには、今後いつ容態が急変してもおかしくないそうだ」


 その言葉は、しかし、ぼくの耳にはほとんど届かなかった。とにかく彼女のことが気がかりであり、できるだけ早く、できるだけ近くに行きたいという気持ちのみがあった。


 だが、ガラス扉のドアノブに手をかけたとき、壁の向こうで警報音が鳴り響いた。すぐに女性の看護師がやって来て、ぼくの腕をつかんだ。


「どうかそれ以上はおやめください」彼女はこちらから目をそらし、ためらいがちに続けた。「あの警報は患者さんの補助コンピューターとリンクしていて、コンピューターを通じて患者さんの深層心理に働きかけているのです。あの警報が鳴ったということは、往生さんは……大変申し上げにくいのですが……あなたとの面会を拒まれています」


 ぼくはその言葉に唖然として、口を半分開けたまま突っ立っていた。看護師はこちらの顔を見ようとはせず、ぼくを横に移動させるとひとりで扉を開けてなかに入り、カーテンを閉め切った。


 水色のカーテンは、おまえにもう用はないとでも言うかのように、しっかりと閉ざされてぼくの視界を遮っていた。


「場所を移そうか」


 室長はそう言って部屋を出た。ぼくは黙って彼について歩いた。フロアの隅の自動販売機で彼はホットの缶コーヒーを二つ買い、一つを投げて渡してきたが、ぼくはそれを取り損ね、床に落ちた缶はころころと室長の足元まで転がっていった。それを拾い上げた室長は、こんどはもういっぽうの缶を手渡してくれた。


 室長は窓際に立ち、外の闇を見つめながら言った。


「往生は機構に監視されていた」

「監視?」


 ぼくは、驚いて訊き返した。


「補助コンピューターの違法改造を行っていたらしい。あいつは自分の『頭』を改造して、脳内麻薬をつくり出していた。カシミールから日本へ呼び戻したのも、もともとは違法改造の罪状をかためるためだった」

「室長も最初からそのことを知っていたのですか」

「ああ。なにせ、おれが捜査責任者だからな」


 こちらを振り返った室長の顔にはいく筋ものしわが刻まれており、そのひとつひとつに疲労の影が落とされていた。彼は続けた。


「本来ならばすぐに証拠を突きつけて往生を逮捕するはずだった。だがそれよりも先に転生者が出現し、状況が変わった。上の連中はおれに、こんどは往生へ司法取引を持ちかけるよう指示してきたんだ」

「司法取引?」

「うむ。罪を見逃す代わりに、ある人物の居場所を吐いてもらう予定だった」

「誰です?」

天部てんぶシキ博士だよ。博士なら転生者事件の真相を明らかにできる。上はそう考えたんだ。だが伽藍会なきあと、博士の行方は知れなかった。そこで往生が目をつけられたのさ。あいつは博士から娘のように可愛がられていたらしいからな」

「しかしリツは言っていました。自分は問題児だったと」

「問題児ほどかまってやりたくなるもんだ」と言って、室長はぼくに微笑みかけた。「とにかく、おれは取引に応じるよう往生を説得した。だが、あいつは博士の居場所など知らないの一点張りだった。それから、自分も転生者関連の任務に参加させてほしい、任務が終わったら自主をすると、何度も頭を下げながら頼みこんできたんだ。結局、おれはあいつの頼みを聞き入れた。上の連中には、往生を説得中だと、嘘の報告を続けてな」

「それじゃあ、リツは本当に自分のコンピューターを?」

「そうだ」室長はコーヒーを一口飲んでから答えた。「彼女のコンピューターと脳は度重なる改造によってぼろぼろでな。本来ならまともに働ける状況ではなかった」

「嘘だ。彼女はそんな気配は少しも見せなかった」

「隠していたんだよ。おまえにだけは秘密にしておいてくれとおれも頼まれていた」

「そんな……」ぼくは言った。「どうしてなにも言ってくれなかったんだ」

「おまえにはわからんのか。愛する男に二度も去られたくない女の気持ちが」


 室長の非難するような声に、ぼくは反射的に彼をねめつけた。その言い方は卑怯だという、反感の気持ちを眼差しにこめて。しかし、こめかみに血管を浮き上がらせて無念そうな顔をする室長を目の当たりにすると、もはやなにも言うことができなかった。彼もまたリツのことで心に傷を負っているのだ。もしかしたら彼女の自殺を食い止めることができたかもしれないと、自分のことを責めているのだ。そう思うと、とても彼を批判する気にはなれなかった。


 それにぼくだって他人のことをとやかく言える立場ではない。リツが日本に戻ってからというもの、彼女の一番近くにいたのはぼくであったし、それに彼女のなかで生じていた異変に気づいていなかったわけではない。最近の彼女の情緒不安定なところや、かねてより見られた死への憧れ。そうしたものが心のどこかで引っかかっていながら、ぼくは彼女の心の奥に踏みこむことをおそれるあまり、なにもすることができなかった。


 先般、彼女に面会を謝絶されてしまったのも、ぼくのそうした意気地のないところに彼女が失望したからかもしれない。


 窓の外を見ると、黒服の男が数人の下級倫理官に追われていた。補助コンピューターが勝手に男の素性を洗い出し、そのすぐあとに、倫理官が男の脚を撃ち抜いた。地面に倒れこむ男を倫理官たちはよってたかって蜂の巣にし、ぼくの視界の隅に浮かぶ個人情報データにバツ印が刻まれた。


「彼ら転生者は、おれたちとなにが違うんだろうな」同じ光景を見ていた室長は、ひとりごちるように言った。「おれたちも彼らも、自分で考え、自分で動く。感情と記憶を持っている。意識や記憶が生体由来の生ものなのか機械由来のデータなのか、そこを問題にする者もいるが、だったらおれたちだって記憶をデータ化してコンピューターに保存しているじゃないか」

「死を経験したことがあるかどうかです」置き去りにされた鉄の死体を見つめながらぼくは答えた。「それ以外にぼくらと彼らとを区別する方法はない。転生した六道ムイは、自らに魂が宿っていると本気で考えていました」

「たしか往生も、アンドロイドには転生者の魂が宿ると言っていたな。そもそも魂がなんなのか、おれにはわからんが」室長は空き缶をごみ箱に投げ入れた。「おれはそろそろ帰るが、おまえはどうする?」

「ぼくも帰ります」


 ぬるくなった未開封の缶を上着のポケットに突っこんで、通用口へと向かう。途中、リツの病室のあたりで立ち止まりたい衝動に駆られたが、必死にそれを抑えこみ、扉の前を通り過ぎた。


 帰りのタクシーのなかで、夜更けを過ぎた街が徐々にネオンの彩りを失って闇に呑まれてゆくさまを見つめながら、これまでのことを考えた。果たしてぼくはこれまでの人生のなかで、なんらかの成果というべきものをあげることができただろうか。人生の意味探しにせよ、ムイやリツとのことにせよ、ぼくは独りよがりの迷いや悩みを繰り返すばかりで、結局、最後には大切なものすべてから逃げ出してしまっている。特にリツとのことにかんしては、いま思ってみると、彼女にもっとたくさんのことをしてあげられたであろうし、もしもそうしていれば、彼女は今夜も安心して眠りにつくことができたかもしれない。


 そこでふと彼女の香水の匂いを思い出し、その匂いはナイジェリアの埃だらけの記憶を呼び起こす。ぼくと彼女の出会いの地であり、おそらくは彼女が暗い心を養った地。二人にとっての楽園であり、同時に地獄でもあった地。ぼくは懐かしさと後悔を背中に負いながら、その地にまつわる思い出をゆっくりと、ゆっくりと、見えない心の指でなぞってゆく。

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