記憶データの修復が完了したあと、もう大丈夫だと言うぼくをリツは無理やりメンテナンス室へと連れて行った。


 メンテナンス室とは、補助コンピューターの改造や調整、修理を行うための設備が用意された部屋のことであり、機構の拠点には必ずこのメンテナンス室が設けられていた。しかし誰もが自由に出入りできるわけではなく、部屋を使用できるのは機構内部でも上級倫理官に限られるうえ、専門の資格を持つエンジニアが同席しなければならない決まりであった。


 リツは上級倫理官でありながら専門資格も有しており、単独での入室を許された数少ない者のひとりだった。


「お願い。コンピューターをスキャンさせて。破損しているデータがあるかもしれないから」


 ぼくを施術台に寝かせたあと、リツは傍らの椅子に腰かけ、右手でスキャン用の機器を操作し始めた。もういっぽうの左手はぼくの右手を握っており、ぼくは彼女の手の温もりを感じながら、頭のなかがぼうっと霞んでゆくような心地を味わっていた。それは彼女によってコンピューター内のデータがスキャンされているためのものだったが、先ほどまでの激しい痛みや苦しみはまったくなく、むしろ脳がほぐされてゆくような気持ちよさがあった。


 その夢心地に身を委ね、うつらうつらしていると、


「私、どうかしていたんだわ」


 リツは言った。


「そうでなければ、あなたにあんなこと、するはずがないもの。ごめんなさい。辛い思いをさせてしまって……でも、私自身ではどうしようもなかったの。気持ちがたかぶって、抑えきれなくなって。自分で自分が、わからなくなってしまうの」


 スキャンが進行する間、彼女はぼくの手をしっかりと握って離そうとせず、それどころか砕いてやると言わんばかりの力が彼女の手にこめられていた。彼女は自らの狂気や強すぎる感情、それから死への欲望といったものに対しておそれをなしているようだった。本来ならば知の恒常性プログラムによって抑制されているはずのそれらの要素が、彼女の場合、どういうわけか外に向けて放たれてしまっている。これはとても健全かつ正常とは言い難かった。


「きみが探していたのはムイの記憶だね」ぼくは言った。「補助コンピューターのなかにあるムイの記憶を見つけて、それを消したかった。違うかい?」


 するとリツは控え目に肩をすくめた。


「よくわからない。もしかしたらそうかも……いや、きっと、そうなんだわ。私、あなたの口から六道ムイという名前が出てくるたびに、息が苦しくなったの。いま、ようやく気づいたことなんだけど……」

「こういうことは今回が初めてではないんじゃないのかい?」ぼくは言った。「つまり、自分で自分を抑えきれない状態になることは」

「ええ」彼女は頷いた。「ときどき自分の感情を制御できなくなるの。どうしようもなく誰かを苛めたくなったり、大切なものを壊してしまいたくなる。その逆の気持ちが芽生えることもあるわ。誰かに苛められたい、私の大切なものをすべて壊してほしいって……。それから、無性にセックスがしたくてたまらなくなるときもある。身体がうずいて、ひどくみじめな気持ちになって、気がついたら濡れているの。そういうときはいつも、相手は誰だってかまわなくて……」

「もういい」ぼくは彼女の話を遮った。「もう、いい……」


 いつの間にか、こちらのほうが彼女の手を強く握り返していた。彼女が自分の性的な衝動、しかも誰とでもいいからセックスがしたいなどという欲求を打ち明けたことには驚いたが、なによりも話の続きを聞きたくないという思いがあった。身勝手な考えかもしれないが、ぼくは彼女がほかの男に抱かれている姿を想像したくなかったのだ。


 すでに終わった関係とはいえ、なにもぼくに向かってそういうことを言わなくともよいではないかという気持ちがわき上がった。しかし考えてみれば、ぼくもムイのことでリツに同じ思いをさせていたのかもしれない。いや、きっとさせていたのだろう。


 リツは饒舌を装った寡黙な女性だ。思ったことや感じたことをあけすけと話しているように見えても、実際の彼女は自分の本心を巧妙に隠したり、誤魔化したりする人間なのだということをぼくは知っている。彼女が本心を打ち明けるのは然るべき相手にだけ。それも、ここぞというときだけだった。


「幻滅した? 最低な女だって思った?」


 リツは自嘲のような笑みを浮かべつつ言った。まるでそうだと言ってほしいかのように。しかし、ぼくは答えた。


「思わないよ」


 彼女の顔から笑みが消え、追い詰められた者の浮かべるような、鬼気迫る表情へと変わった。


「だったら、また私のことを抱いてくれるの。ナイジェリアの基地の、硬いベッドの上でしてくれたみたいに」

「おい、もうよせ」

「それとも、もっとプラトニックなのがお好み?」リツはわざとらしい、甘い声で言った。「だったら、こんどは私の補助コンピューターのパスワードを教えてあげましょうか。あなたになら、私の神様を見せてあげてもいいわ」

「やめるんだ」ぼくは首を横に振った。「ぼくにはもう、きみが望むようなことをしてあげられない」


 興奮気味であったリツの顔に、みるみる落胆の色が浮かび始めた。彼女はぼくの手を離し、言った。


「そうよね。あなたにはムイさんがいるものね」

「ムイは死んだ。十年前に」

「だけど転生したわ」

「きみは転生なんてものがあると本気で思っているのか。ムイは転生者たちの魂がデータにすぎないと言っていただろう」


 ムイの話によると、死の間際、人間は自らの脳を一個の自律思考するシステムとして補助コンピューターに移し替えるらしい。だがそれは『脳』という名前を持っているとはいえ、ただのシステム、あるいはプログラムだ。人間はシステムやプログラムによって作動しない。脳を機械化したとしても、魂は有機的であるはずだ。


「もしも転生者の魂がただのデータだと本気で思っているのなら」リツはやや厳しい口調で言った。「六道ムイに、お前は偽物だ、と言ってみればいいじゃない?」

「それは……」


 ぼくが言いよどむと、ほらね、とリツは言った。


「あなたは六道ムイを傷つけたくないと思っている。それは、単なるデータに対して抱く感情ではないわ」


 そして彼女は立ち上がった。


「スキャンは終了。問題なしよ」


 リツはスキャン用機器の電源を切ると、こちらに背を向けて帰り支度を始めた。これ以上話すことはないと彼女の背中が語っている。彼女はきっとなにか大切なことを言おうとしていたのだろう。あるいは言ってほしかったのかもしれない。しかし、彼女は高まる欲求のその向こうにある真実はついに明らかにならなかった。すべてぼくのせいだ。


 重たい頭をもたげながら、ぼくは無言のままリツのうしろをついて部屋を出た。




 このごろ、よく夢を見る。一昨日も、昨日も、そして今日も。


 夜、十二帖ほどのリビングの隅に置かれた鏡台に向かっていた。リツの部屋だった。外観は古ぼけて見えるけれど、内装はとてもよく手入れされている、アパートメントの一室である。オレンジ色の間接照明がひとつだけ灯され、フローリングの床と白い漆喰塗りの壁を染めていた。


 木製の鏡台の上には化粧品や香水がいくつか置かれており、台の前の椅子に腰かけていると、絶えず甘ったるい匂いがした。懐かしい香りだった。この香りはぼくを笑顔にし、落ちこませもして、それから少しだけ泣きたくさせる。もちろんぼくに泣くことはできないけれど。


「ナイジェリアのことを思い出しているんでしょう」


 不意に鏡のなかにリツの姿が現れた。黒いサテン生地のネグリジェを着て、少し伸びた後ろ髪を結え肩から胸元にかけて垂らしている。ぼくは驚いて、鏡越しに彼女と目をあわせる。彼女はその反応を見て、ふっと笑った。


「図星ね」


 リツの手がぼくの肩にそっと置かれた。


 ナイジェリアから日本に戻ってすぐに彼女とは別れてしまったが、ほんの短い間だけ、この部屋にかよったことがあった。彼女はベッドにいるとき以外はいつも鏡台にの前に座っていた。鏡に映った顔はひどく辛そうだった。彼女も、彼女の肩に手を置くぼくも。


 彼女は言った。


「そんなによく思い出してしまうのなら、記憶データにロックをかけてしまえばいいのに。臭いものには蓋をする。誰だってやっていることよ」

「いいんだ、このままで」

「変な人。もしかして泣きたがりなの?」


 彼女は悪戯っ子のするような笑みを浮かべた。泣きたがりというのはそのままの意味ではなく、要するに彼女はぼくにマゾヒストなのかと訊いているのだった。


「そういうんじゃない。ただ、怖いだけだ。自分の記憶を制限するということは、そのまま自分の魂を制限することに繋がるのではないかという気がする」

「あなたって本当にむつかしい性格をしてるのね。自分で自分を縛って、惑わせて、苦しんでいる」


 リツは部屋のなかをゆっくりと歩いてゆき、奥の窓枠に腰を下ろした。窓は開かれており、中途半端に閉じられたカーテンが、夜風を受けて控え目に翻っていた。


「でも、私も同じね」リツは言った。「私のなかにも、私自身を縛りつけるものがたくさんあって、そのせいで心の身動きが取れなくなっている。私はその束縛から心を解放してやりたいの」


 そして彼女は細い目をしてぼくを見た。


「今日、私が誰それかまわずセックスしたくなるときがあるって話したら、あなたはすごく嫌そうな顔をした。嫉妬深い目をした。すごく嬉しかった」


 微笑む彼女の目からは涙が流れていた。誰も流すことのできないはずの、あの涙が。


 驚くぼくを前に、彼女は続けた。


「その目でもっと見てほしかった。私の醜いところぜんぶを見てほしかった。あの子でなく、私だけを見てほしかった」

「おい、待て。なにを考えているんだ?」

「好きよ、コウ」

「よせ、リツ」


 ぼくは彼女のもとへ駆け出し、間に合えと心のなかで叫びながら手を伸ばしたが、彼女の腕はこの手をするりとすり抜け、細い身体は真っ逆さまに地面へと落ちていった……。


 そこで、はっと目が覚め、クロス貼りの天井が視界に入りこむ。


 寝ぼけまなこのまま周囲を見渡すと、そこはリツの部屋ではなくぼくの部屋だった。壁掛けの時計は午前二時の少し前を指している。夢だったのか。大きく息を吐いて、ぼくは身体を起こした。


 どういうわけか、このごろは毎晩のように夢を見る。たいていは子どものころの思い出か、戦地での記憶だったが、しかし今日のものはどちらとも違い、実際に体験したことのない架空の記憶だった。それもリツが飛び降り自殺をするという、とびきり趣味の悪いものである。


 夢でよかったとひとまず胸をなで下ろしたが、そのときふと昼間のリツの豹変ぶりが思い出され、不安になった。まさか本当に彼女になにかが? いや、よもやそんなことはあるまい。しばらく逡巡したすえ、彼女に連絡を取ってみようと枕元の通信端末を耳に装着した、まさにそのとき、端末に着信があり、視界に布施室長の名前が表示された。


 嫌な予感がした。


「はい、有情です」


 おそるおそる応答すると、室長の切羽詰まった声が聴こえてきた。


「往生が自室の窓から転落した。現在、集中治療室に入っているが、かなり危険な状態らしい。おれはこれから病院に向かうが、おまえも来られるか」

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