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天井も壁も床も水色に彩られた長い廊下を、その爽やかな色合いとは対照的な、暗く沈んだ気持ちを抱えて進んでゆく。
世界各国の技術保全機構の拠点はどれも、備品の倉庫や機械室といった一部の部屋を除くあらゆる場所が水色に染められていた。健全かつ正常な世界のイメージとしてのその色は、しかしながらこの日のぼくをひどく苛立たせ、また不安にもさせた。
向かっている先はサイバー研究室だった。猿島で昏睡状態となってから覚醒まで十日、そのあと傷の十分な回復までもう十日、あわせて二十日をベッドの上で過ごすうち、ぼくは自分の実働部隊員としての立場が失われつつあることを認識しており、そしてそれは退院とともに現実のものとなった。復帰したぼくに与えられた任務は外回りではなくリツのサポート、つまり内勤だった。布施室長からは「お前の怪我が完治していないことを考慮しての判断だ」と言われたが、本当のところ、傷を持つ人間は戦闘要員としてはお払い箱ということなのだろう。
あるいは、こういう考え方もできた。猿島の転生者たちのリーダーであった六道ムイは生前にぼくと関わりを持っており、機構はそのことを間違いなく把握している。そしてその六道ムイは、機構の部隊が攻めこんでくる直前にタイミングよく島を脱出した。むろん昏睡状態にあったぼくが彼女に情報を漏らしたと言う者はいるまい。しかし転生したムイに対してぼくがなんらかの情を抱き、彼女に与しているのではという疑いくらいはかけられていても当然であり、事の真偽を確かめるためにも機構はぼくを常時、監視下に置こうとしている。そんな可能性も否定はできない。
いずれにせよ、ぼくは外を自由に動き回れる身体でも立場でもなくなったのであり、それは一連の事件の真実へと至る道のりが閉ざされたのと同義であった。
サイバー研究室での主な仕事は、転生者制圧部隊のオペレーターを担当するリツに、補助コンピューターの領域の一部を貸し与えるというものだった。
この数週間にわたって彼女は働きづめで、ときに複数の部隊のオペレーションを同時に行っていたため、彼女の補助コンピューターは常に処理落ち寸前の状態に陥っていた。そこでぼくと彼女のコンピューターをリンクさせ、一部のデータをぼくのコンピューターに処理させれば、彼女にかかる負担が軽減されるのではと考えられたのだ。
ぼくはこの申し出を承諾した。自分のコンピューターを誰かに委ねるというのは、自分の神や信仰をさらけ出すのと同じであり、とても勇気のいることだった。しかしリツに対してなら神や信仰を打ち明けることも可能だったし、もっと言うならば、すでにぼくはナイジェリアでそれを実行していた。
こうしてぼくは自分の補助コンピューターをリツに提供することとなった。
リンク中の
そのコードは新次元機工社東京本社ビルでの作戦のときにぼくが彼女に教えたものであったが、オペレート中、彼女はそれを用いてぼくのコンピューターを酷使した。酷使といっても、単にこちらの領域でデータ処理を行うだけではない。ときにはぼくの記憶データを勝手に圧縮したり、昨日の夕飯といった細かな記憶を断りもなく消去したりするのだった。ぼくはそのたびごとに激しい頭痛に襲われ、吐き気を催したが、それでも彼女は攻める手を緩めず、文字通り頭がパンクする寸前までこの身体を痛めつけた。そうしてその日の任務が終了すると、手際よく記憶を元通りに復旧し、お疲れさま、と冷たく言うのだった。以前の労わりに満ちた言動とは正反対の、残忍とでも言うべきそれらの行いの数々は、彼女の印象をみるみる変えていった。
いったいリツになにがあったのか。なにが彼女をそこまで変えてしまったのか。かつての優しさも思いやりもまるで感じられない彼女を、ぼくは扱いかねていた。しかし厳しいばかりかと言われるとそうでもなく、ときに彼女は頼まれてもいないのにぼくの補助コンピューターのメンテナンスをしてくれた。そしてそれを行う間、彼女は決まって、どこか遠くを見ているかのような目をするのだった。彼女の眼差しは転生者たちのそれと似ていて、見つめ合っているとこちらの息が詰まるようだった。
記憶の改ざんと復旧。そのむごたらしい仕打ちが半月ほど続き、ぼくが限界を迎えつつあったある日、事件は起こった。
その日に予定されていた作戦行動はいつもよりも小規模なもので、出動する部隊もひとつだけであったため、今日ばかりはあれやこれやと頭を弄られることもないだろうとぼくは
「ちょっと待ってくれ」
ぼくが言い終えるよりも早く、彼女は二機のコンピューターのリンクを開始した。それが拷問の始まりを告げる合図だった。
作戦が始まるや、彼女はこちらのコンピューターに大量の情報を送りこむのと同時に、内部の記憶データを片っ端から消去しにかかった。今朝食べたパンの枚数といった些末なことはもちろん、機構に入ってからいままでの記憶や、それ以前の記憶まで、すべてを消し始めたのである。それも、目の前のディスプレイに映る倫理官たちに淡々と指示を出しながら。あっという間にぼくのコンピューターはほとんど空っぽの状態となり、視界には、『ハッキングされています。大変危険な状態です』という警告が大きく表示された。
このままでは頭がおかしくなってしまう。ぼくは慌ててリツの服の袖をつかんだ。
「やめてくれ。やめてくれ」
しかしヘッドセットを装着してディスプレイに向かっていたリツは、首だけこちらを向いて言った。
「我慢なさい」
苛立ちと憤りに満ちた声だった。ぼくがなにか彼女を怒らせるようなことをしたのだろうか。それとも彼女も室長やその他の者たちと同様、ぼくのことを疑っているのか。だからこうして頭のなかを弄り回して裏切りの証拠を探っているのか。だとしたらそれは無意味だ。ぼくはきみやきみの同僚たちを裏切るようなことはなにひとつしていない。そう弁解しようとしたが、その考えさえもすぐさま消去されてしまい、ぼくは陸に打ち上げられた魚のように口をぱくつかせるほかになす術がなかった。
だが、彼女がコンピューターの最も深い部分にある記憶に触れようとしたとき、自分が自分でなくなるような危機感を覚えたぼくは、彼女が伸ばした電子の見えざる手を強く払いのけた。優先権は彼女のほうにあるはずなのに、どうしてこのようなことができるのか、自分でもわからなかった。しかしそんなことはどうでもよかった。どうしてもこの記憶……ムイと過ごした日々の記憶だけは守り通さねばという気持ちがあった。彼女はこちらを睨みつけ、また手を伸ばしてきた。なんとしてでもこの記憶を奪い取ってやるという、強い意思めいたものをぼくは感じた。しかしそうはさせまいと、ふたたび見えざる手を弾き返した。
するとリツの眉間にいっそう深いしわが刻まれた。彼女はもはや自分の感情を隠そうとはせず、こちらの抵抗に苛立っていた。それから怒ってもいるようだった。ぼくがなにかをしたか、あるいはしなかったか、どちらかの理由によって。
「嫌だ。これだけは駄目。これだけは消さないで」
子どもがするようにぼくはリツへすがりついた。もしも知の恒常性プログラムが機能していなかったなら、目に涙を浮かべていたかもしれない。それくらい必死な頼みだった。対する彼女は初めこそ腹立たしげな顔をしていたが、すぐにそれは戸惑いの表情に変わり、やがてパニックを起こしたように唇を小刻みにふるわせ始めた。
「ごめんなさい。コウ」リツは慌てて言った。「ごめんなさい。私はなんてことを……」
オペレーターの仕事はそっちのけで、消去した記憶データを復旧しながら、彼女は頭をぶんぶんと振った。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ゆるして、ゆるして……」
頭をかきむしろうとする彼女の手をぼくは強く握り、混乱と自己嫌悪に歪む彼女の顔を見つめて、首を左右に振った。怒っていないというサインのつもりだった。彼女はその意味に気づいたようで、一寸、目を見開いたが、それでも謝ることをやめようとはしなかった。ごめんなさい、ゆるして。ごめんなさい、ゆるして。結局すべての記憶が元通りになるまで、ぼくは彼女の手を握り、謝罪の言葉を聞き続けなければならなかった。
彼女のなかで、なにかが狂い始めていた。
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