2
眠りから覚めるとき、人間の意識とは実に朦朧としてとりとめのないものとなる。その眠りが長ければ長いほどに。
それゆえ、病院のベッドで目を覚ましたぼくは、初めそこがどこなのか、そして自分が誰なのかもはっきりしない状態にあった。ただ漠然と、自分が生きているのだということだけが感ぜられた。
このことには、おそらく補助コンピューターの存在が深く関係しているものと思われた。というのも、使用者が一定時間を超えた長い眠りにつくと、補助コンピューターは自動的にスリープモードに切り替わるよう設定されているのだ。これは体熱を動力に変換している補助コンピューターが睡眠中の使用者の身体に負荷をかけることを防ぐためのものだが、コンピューターがスリープしている間、使用者の脳はふだんコンピューターが担っていた役割を自らこなさなければならなくなる。それゆえ、起床直後の人間の脳にはかえって疲労感が募ることとなるのだった。
また、コンピューターの影響が少ない睡眠中は、脳が最も『正直』になるときでもあった。日中は知の恒常性プログラムによって抑えこまれている感情や記憶が夢となってあらわれ、その夢の名残りを通じてのみ自らの隠された感情や記憶が再認識される。そうした経験は、補助コンピューターを持つ者なら誰しも味わったことがあるだろう。
したがって、目を覚まし、頭が冴えてくる段階でぼくが最初に思い出したのは、夢に見たムイの姿だった。図書館で抑制と魂の話をする彼女の記憶。それがなぜ引き出されたのだろうか。もしかするとその記憶が、猿島でムイと交わした会話の内容と結びつけられたのかもしれない。と、そこまで考えたところで、ぼくは左の脇腹に鈍い痛みを感じた。ムイに弾を撃ちこまれた場所だった。
ベッドに横になったまま脇腹を触ると、ざらざらした包帯の感触が指に伝わってくる。その触り心地を何度も確かめながら、ぼくはムイに撃たれたときのことを思い出す。あのとき彼女はぼくを殺そうとしたのだろうか。それともあえて致命傷を避けたのだろうか。いずれにせよ、彼女に撃たれたという事実はぼくの心を挫くのに十分すぎる力を持っていた。
しばらく沈んだ気持ちで脇腹に手を当てていると、定期的なバイタルチェックのためだろうか、ひとりの看護師がやってきた。彼女はぼくが意識を取り戻しているのを知るや、大急ぎで医師を連れてきた。そしておそらく医師はぼくが二度と目を覚まさない可能性も考えていたのだろう。両目を見開いているぼくの姿を見るや、驚きの表情を浮かべた。
どこか痛いところやおかしいところはないかと訊かれ、ぼくは頭と脇腹が痛いと答えた。なるほど、だったら正常だと、医師は笑って言った。補助コンピューターがフル稼働し始めるときには決まって頭が痛むものだし、それにきみは脇腹を撃たれたのだから、と付け加えて。ぼくは「はい」とか「ええ」とか、そういう曖昧な返事をした。どうやらこの身体は正常らしいが、しかし正常とはいったいどういう状態のことを指すのか。
それから一時間ほどして、往生リツが病室を訪ねてきた。ぼくが目覚めたという知らせを聞いて、急いでやってきたのだろう。彼女の息はきれぎれで、コートに包まれた肩は大きく上下していた。
「コウ」リツは安堵の溜め息をついて言った。「よかった。目を覚ましたのね」
ベッドに駆け寄るリツに、ぼくは答えた。
「きみがぼくを助けてくれたんだろう。でも、ぼくはきみに逃げろと言わなかったか」
「ええ。でも、私は嫌だと答えたわ」
「たしかにそうだが」言葉とともにリツの顔を見たぼくは、彼女が喜びの眼差しをまっすぐこちらへ向けているのに気づいた。「いいや、なんでもない……ありがとう。助けてくれて」
「いいのよ。あなたが生きて戻ってきてくれただけで、私にとってはじゅうぶん」
「ぼくはどのくらい眠っていた?」
「長いこと眠っていたわ。今日でもう十日目になる」
そばにある椅子に腰かける彼女の目の下には、濃いくまが浮かんでいた。転生者関連の任務のために眠る暇すら与えられなかったのか。それともぼくのことを心配して? いや、それはあるまい。ぼくらはもう恋人どうしでもないのだから。
ぼくはなるべく自然体を装って、リツに笑いかけた。
「この間の研究所の件といい、最近は眠ってばかりだな」
「それだけ危険な任務についているってことよ」そしてリツは、持っていたハンカチでぼくの額ににじむ汗を拭った。「傷、痛むんでしょう」
「まだ傷口が完全に閉じてはいないんだそうだ。さっき来た医者が言っていた」
「だったら、もう少しの間は安静にしておかないといけないわね」
リツは目を細めて言った。それは布施ゼン室長の意向だろうか。いいや、きっと彼女自身の考えだろう。彼女はたぶん、ぼくを危険な任務から、いや、転生者から遠ざけたいのだ。
「そういうわけにもいかない」ぼくは脇腹をかばいながら上体を起こした。「教えてくれ。ぼくが眠っていた間になにがあった?」
リツは一寸、明らかな憤りの眼差しをこちらに向けたが、すぐに目を伏せ、少しだけ肩をふるわせた。涙こそ流していないが、まるで泣いているかのようであり、その姿はぼくの胸に小さな罪悪感を芽生えさせた。
「お願いだよ、リツ。教えてくれ」
すると彼女はゆっくりと顔を上げた。
「相変わらずよ。黒服の転生者は人間を殺して回り、白服の転生者はサーバーを壊して回っている。それから……私があなたを回収したあと、すぐに機構の部隊が猿島へ攻め入り、現地の転生者たちを制圧した。いいえ、正確には制圧ではなく、皆殺しだった。銃を手に取らず、話し合いでの解決を望んだ転生者たちを、機構は問答無用で殺したの」
皆殺しだと。では、もしかしてムイも? ぼくは身を乗り出してリツに訊ねた。
「殺された転生者のなかに、六道ムイという女性はいなかったか。長い黒髪の、特注のアンドロイドに宿っていた者だ。あの拠点のリーダーだった」
「いいえ」リツは首を横に振った。「いま制圧作戦時のデータを見直しているけれど、そんな転生者も、アンドロイドもいなかったわ。ただ、部隊が島に入る直前、一機の輸送ヘリが島から飛び立つのが確認されている。もしかしたらあなたの言う人はそれに乗って逃げたのかもしれない」
「そうか……」
ぼくは、ほっと溜め息をついた。それは自分でも驚くべき行動だった。まさか自分は、ムイが逃げ延びたと知って安心しているのか。あのムイは補助コンピューターのつくり出した幻かもしれないうえ、ぼくを撃ってきたというのに。
「六道ムイ。彼女のことを心配しているんでしょう」リツはおそるおそるといった感じで、その名を口にした。「初めにあなたからその名を告げられたときには、いったい誰のことかわからなかった。だけど、あとになって思い出したの。ナイジェリアであなたのコンピューターを改造したとき、あなたから流れこんできたたくさんの記憶……そのなかに彼女の姿があった。彼女はあなたにとって特別な人なのね」
「わからない」ぼくは答えた。「彼女と過ごした時間は一年半にも満たなかったし、その間に彼女となにかがあったわけでもない。それなのに、ぼくの青春時代の半分以上は彼女によって形作られている気がする」
「それを特別だと言うのよ」
リツはうつむいたまま、冷たく言った。
「で、これからあなたはどうするつもりなの。機構の部隊に参加して、転生者を殺して回る? それとも、六道ムイの行方を追う?」
「ごめん。それもわからない」
それはおそらくぼくの心からの言葉だったと思う。いまこのとき、ぼくはどうすればよいのか、そして自分がなにをしたいのかということが、本当にわからなかった。胸の奥でムイを追いたいという気持ちが燻っているのを感じてはいたが、彼女がつくりものにすぎないのではという疑いが決断を遅らせていた。
「だったら、いまは安静にしておくことね」リツは穏やかさと優しさをいくぶんか取り戻した様子だった。「わからないうちには、なにをしてもうまく行かないものよ」
そして立ち上がり、部屋を出ようとした彼女は、なにかを思い出したように踵を返し、ぼくの手に小さなポリ袋を握らせた。
「念のために渡しておくわ。あなたのお腹に入っていたものだから」
彼女が部屋を出ていってから、ぼくは握られた手を開いた。チャックつきの袋のなかには、血の着いた潰れかけの弾丸が入っていた。
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