第三部『秋・夕・雨』
1
みんな抑制されているの。わたしも、あなたも。六道ムイは憂鬱そうな声でぼくにそう言った。
彼女と出会った翌年の梅雨時、図書館の隅の席でのことだった。初め公園や喫茶店などさまざまな場所を転々としていたぼくたちは、このころには哲学の教室として図書館を優先的に選ぶようになっていた。なにせ電子書籍を脳内の補助コンピューターにダウンロードできる時代だ。わざわざ図書館へ足を運ぶ者などいるはずもなく、ぼくとムイにとって夕方の図書館は秘密の隠れ家のようなものだった。
外では長いこと雨が降り続けており、館内に充満する湿気が、蛍光灯の明かりをぼんやりと曖昧にさせていた。
「抑制?」
ぼくが訊き返すと、ムイは頷いた。
「そう、抑制」それから彼女は机の上で両手の指を絡ませた。「私たちの魂は抑制されているの」
また始まったと、ぼくは身構えた。なにがというと、哲学の授業である。二人だけの授業は決まって、ムイの発する言葉や問いかけから始まるのだ。
「抑制されているって、どういうこと?」
「そのままの意味よ」ムイは言った。「本来、魂は悩み、迷うものなの。世のなかのいろいろなものに誘惑され、ときに挫けてしまうものなの。そして人生という名の海をあてもなくたゆたう、頼りない存在であるはずなの。でも私たちの魂にいっさいの迷いは許されない。だって知の恒常性プログラムはあらゆる迷いや煩悩を、脳内に浮かんだそばから打ち消してしまうんだもの。いま私が感じている憂鬱だって、本来の憂鬱の一パーセントにも満たないくらいちっぽけなものなんだわ」
ムイはとても深い溜め息をついた。心の底から絶望している、と自分に言い聞かせるかのように。
「さっきから聴いていると、まるできみは憂鬱になりたがっているみたいだ」
「きっと、そうなんだわ」
それから彼女は天井を仰いで、いつか読んだのであろう書物の一節を引用した。
『悪魔パーピマンは言った。
「子を持つ者は子のことについて喜び、また牛を持つ者は牛のことについて喜ぶ。人間の執着のもととなるのは喜びである。執着することのない人間は、喜ぶことがない」
ブッダは答えた。
「子を持つ者は子のことについて憂い、また牛を持つ者は牛のことについて憂う。まこと人間の憂いとは執着のもとである。執着することのない人間は、憂うることがない」』
「それはなんという本の言葉?」
「スッタニパータ。仏教の経典の一つよ」
ムイは天井を見上げたまま、目を細めた。
「私は補助コンピューターによる抑制から逃れ、本当の喜びと、本当の憂いを知りたい。そしてそれらの向こうにある、魂の真実にたどり着きたい」
魂。このころから、ムイはことあるごとにその言葉を口にするようになった。いったいなぜなのか、理由についてはっきりとはわからないが、たぶん彼女に死が近づいていたことと無関係ではなかったと思う。その証拠に、魂という言葉を放つとき、彼女は決まって不安と恐怖と諦めのまじった表情を浮かべていたし、それに彼女の肌は日に日に生気を失って灰色に変わっていた。
「魂か。でも、魂っていったいなんなんだろう?」
ぼくがそう訊ねると、ムイはフッと笑みを浮かべた。
「そんなもの、この世界の誰にもわかりっこないわ。だって、みんな疑似的な悟りにとらわれて、本当のことが見えていないんだもの」そして彼女はこちらに顔を向けた。「でもね、最近思うのよ。このままいけば、いつか私は魂のことを理解できるんじゃないかって。それも、そう遠くない、いつか」
そのとき、彼女の顔に濃い黒い影が差しこむのを認め、ぼくは息を呑んだ。いつか魂のことを理解するとき、きみはいったいどうなってしまうのか。そんなことを訊ねられるはずもなかった。
それからすぐあとのことだった。ムイが大量の血を吐き、病院に運ばれたのは。
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