7
猿島に上陸したわれわれを出迎えたのは、息が詰まるほどの冷たさに満ちた暗闇と、並々ならぬ威圧感を発揮する断崖絶壁であった。停泊所のすぐ左手にそびえるその崖は宵闇の空よりも黒々として、荒々しく打ちつける波をも容易く弾き返し、まるでこれからの道のりの険しさを象徴するものとしてぼくの目の前に立ちはだかっているようだった。
絶壁をしばらく見つめていたぼくは、後ろをついて来ようとするリツに向かって言う。
「きみは船に残れ」
「私も連れて行って」
リツは懇願するような眼差しをこちらへ送った。その眼差しはしかし、単にぼくを心配する気持ちからだけではないのだろう。彼女の胸のうちに宿る好奇心、過去と現在のジレンマ、そして自ら進んで危機的状況に陥り、黒い死の炎によってその身を焼き尽くしたいという頽廃的な衝動。それらが彼女の瞳からひしひしと伝わってくるのだった。
ぼくは首を横に振った。
「駄目だ。きみを連れては行けない」
「私を置いて行くと言うのなら、あなたの補助コンピューターを壊してしまうかもしれないわ」
「きみはそんなことをする人間じゃない」
ぼくが笑顔とともに投げかけた言葉に、彼女は諦めたように溜め息をつくと、「卑怯な人」とだけ言って船のなかへと戻ってゆくのだった。
停泊所から続く道をひとり歩み始めたぼくの耳には、孤独と寂しさをはらんだ波の音が響いていた。それは故郷の長崎の海を思い出させるものであった。高校時代、いや、ムイがこの世を去ってからというもの、ぼくはよく夜中にこっそり家を飛び出して、すぐ近くの海辺へと向かった。そうして海沿いの堤防の上を、たったひとりでどこまでも歩くのだ。
夜の海岸をうつむいて歩く孤独な少年にとって、海鳴りだけが唯一の友だった。いや、もしかすると海鳴りは孤独の表象であり、孤独こそが友であったのかもしれない。いずれにしても、あのころぼくは独りで、真夜中の海はかけがえのないものであった。大学進学とともに故郷を離れてからはいちども海に行ったことがなかったが、いまこうして海の近くを歩いていると、久方ぶりにかつての友と再会を果たすような、そんな気がするのだった。
波の音に耳を傾けながら歩いていると、森のなかへと通じる木道にさしかかった。森の入口には、白い制服に身を包んだ転生者と思しき男性型アンドロイド二体が、レーザー銃を肩に提げて周囲を見張っている。
ぼくは逃げも隠れもせず、彼らの目の前に歩み出た。
「おまえは誰だ」
二体のアンドロイドのうち片方が言った。
ぼくは自分の名前と所属を伝えた。
「ひとりでここへ来たのか」
もう片方のアンドロイドが銃を突き付けながら言った。
「ひとりだ」
ぼくはリツの存在を伏せることにした。
「なぜ上級倫理官がこの拠点のことを知っている?」
「おまえたちの仲間に教えてもらった」
それからぼくは、白服の転生者から渡された通信端末を取り出した。
二人の転生者はその端末を見て、少し驚いたような表情を浮かべた。
ひとりが言う。
「その端末の持ち主は?」
「死んだ。黒服の転生者たちに蜂の巣にされて。彼は死の間際……」
二度目の臨終を単なる死という言葉で表してよいものだろうかと一寸、不安になったが、ぼくは続けた。
「死の間際、この場所を示した。だからぼくはここへ来た」
すると、二人の転生者は互いに顔を見合わせて、それからふたたびこちらを向いた。
「わかった。ついて来い」
銃を肩に掛けて歩き出す二人の背中をぼくは追いかけた。
木道は、暗く湿った森深くへと続いていた。
木道は森のなかを右へ左へ折れながら、どこまでも延びていた。また、途中には、かつて日本軍の兵士達が兵舎として用いていた横穴式の壕やフランス積みの煉瓦の壁、長い切り通しなど、道行く者の目をあちらこちらへと惹きつけるものが数多あった。
二人の転生者のうしろをついてゆくぼくは、道の脇に瓦礫の散乱する細い階段を見つけて立ち止まった。
「これはいったい?」
すると、右の転生者が階段を上がった先を指さして言う。
「第二次大戦後、アメリカ軍に壊されたんだ。大戦時、この島には砲台がいくつも置かれていた。しかし戦後にこの地を接収したアメリカ軍は、あの階段をのぼった先に島じゅうの砲台を集めて爆破したのさ」
「戦勝国と敗戦国との関係性のなかではよくあることだな」ぼくは言った。「しかし、なぜ爆破の跡を遺しているんだ?」
「戦争の歴史の愚かしさを伝えるためだ」
「愚かしさを伝える、か。それはそんなに大事なことなのだろうか」
「人とは自然に対しては美しさを、歴史に対しては教訓を求める生き物だ。そして教訓の種となるのは、たいていの場合、愚かしさや強欲さ、卑劣さといった歴史の負の側面なのだ」
教訓、というのはずいぶんと使い勝手のよい言葉だと思った。その言葉をあてはめてやることによって、たいていの物事は高尚で意味深いものへとすり替えられる。それに、歴史上における過ちと呼ぶべきものに対して、教訓という言葉は一種の免罪符のような役割を発揮する。過ちから教訓が生まれたならば、その過ちは
やがて一行は木道を外れて小路に入り、奥にある鉄筋コンクリート造の建物へとたどり着いた。草木の鬱蒼と茂るなかに佇むその建物はかなり前に建設されたものと見え、窓という窓が割れ、外壁は無数の
「入れ」
転生者に促され、ぼくは錆びついた鉄扉を開ける。薄暗い建物内には蝋燭が一本だけ灯され、その周囲に大勢の転生者たちが静かに座っていた。そして四方の壁には、彼らの影が大きく不気味にゆらめいていた。
転生者たちはみな、黙ったままぼくを見つめていた。アンドロイド特有の完全なる無表情と、冷たく乾燥した瞳が、すべてこの身に向けられている。目、目、目、どこを見ても、誰かと目が合う。それも表情ひとつ変えずに黙りこんでいる機械人形と。死者の魂の封じられた、人型の棺と……。ぼくは背筋が寒くなってくるのを感じた。
「あなたがこの島にやって来たという上級倫理官ですね」
ふいに部屋の奥から声がした。単調な、女の声だった。
「どうぞ、こちらへいらしてください」
すると、室の奥にあるスチール製の防音扉がゆっくりと開く。ひとりでに扉が動くわけでもなし、おそらく誰かが向こうからそっと押し開けたのだろう。とにかく、部屋に入れということらしい。ぼくは蝋燭の上を跨ぎ、転生者たちの間をすり抜けて奥の部屋へと向かった。
室内には木製の机と椅子がひとセット用意され、机の上には、やはり燭台が置かれていた。枝つきの台に灯された蝋燭の明かりが照らすのは、室の奥に設けられた古びた階段と、椅子に腰かける女性型アンドロイドの虚ろな瞳。
椅子の背に力なくもたれかかるアンドロイドは、首だけを動かしてこちらを見た。
「あなたが有情コウ上級倫理官ですね。ようこそ、猿島へ。私がこの拠点の長です」
それから彼女はぎこちない機械の微笑みを浮かべた。
背後では、鉄の扉の閉ざされる音がした。
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