インナー・カンバセーションを終えて目を覚ましたぼくは、焦点の定まらぬまなこを窓の外に向けた。一面の海だった。つい一時間前までは穏やかであったのがいまは酷く時化しけており、海面に立つ波が濃紺の夜にほの白い光を放っているのが、この船室からも見える。


 夜の七時過ぎに東京港を出た船は、いま東京湾を猿島へ向けて進んでいる。


 目的地の猿島は旧横須賀港からほどない洋上に浮かぶ無人島で、古くは縄文時代から人間の営みの場として用いられていた痕跡が確認されており、江戸時代には幕府により台場がつくられた。その後、日本軍の砲台設置、アメリカ軍による接収などを経て一時は横須賀市の手により観光地化されたが、その横須賀市が大規模市町村合併により解体されたことをきっかけに放置され、いまでは人の寄りつかぬ魔の島となってしまった。


 ゆえにいまではこの島へ向かうのも容易なことではなかった。島に最も近いのは旧横須賀港であるが、ここは横須賀市の解体後放置されており、いまは使用に耐えない状態である。では東京港から向かおうといっても、東京湾に浮かぶ人工島のいくつかは米国の領土となっているため、の国の領海を侵さぬよう進まねばならない。


 そうした理由から、この船も急がば回れを体現するように、右へ左へ迂回に迂回を重ね進んでいる。その迷わしげな航路は、ぼくに真実への道のりがいかに遠いかということを知らしめた。


 ぼんやり海を眺めていたぼくのもとへ、リツがふいに訊ねてきた。彼女は扉をノックして部屋に入る。


「少しいいかしら」


 そう言ってこちらを見た彼女であったが、おそらくぼくが神との対話の直後にありがちな、うっとりした表情を浮かべていたのだろう。視線を足元に落として謝った。


「ごめんなさい。信仰のあとだとは知らなかったから」

「いいんだ。気にしないでくれ」


 ベッドに腰を下ろしていたぼくは、慌てて顔の筋肉を緊張させた。


「きみにはずっと前にぼくの信仰を明かしてしまっているんだから」

「信仰……」リツはそっと呟くような声で言った。「あなたはナイジェリアのときからずっと、あの僧侶と問答を続けているの?」

「うむ。そして未だに答えを見出せずにいる」

「なんに対する答え?」

「人生に対する答え」

「人生?」

「生きる意味とか、喜びとか、悲しみとか、罪と罰とか、そうしたいっさいの物事のこと」

「あなたはいつも物事を難しく考えすぎ。だから僧侶を脳内に呼びこんでしまうんだわ」


 リツは困った目でぼくを見た。


「さて、そろそろ仕事の話をしましょう」


 彼女は手にしていたタブレット端末を操作し、データファイルをぼくの補助コンピューターに送った。


「ついさっき完了した猿島のスキャン結果よ。衛星経由の遠距離スキャンだから、精度は多少落ちるけれど。確認された生体反応は五十五。いずれも転生者のものね」


 検知された者たちの個人情報データを確認するぼくは、いつの間にか自分がムイの名前を探していることに気づく。どうやらこの心はムイと交わした約束を未だに引きずっているようだ。あるいはもう十年も前の、若さと愚かさの生んだあの約束が、一種の呪縛と化して心を捕らえているのかもしれない。


 呪縛、という言葉には意外としっくりくるものがあった。ムイと過ごした一年余りの記憶はぼくの頭のなかであまりにも鮮やかに輝きすぎていたからだ。いくら忘れようとしても忘れられず、かといってよい思い出と片づけることもできない。ムイの死と、果たせぬ約束によって締めくくられるそれらの思い出が、呪いでなくていったいなんであろうか。


「どうかした?」


 黙りこんでいるぼくを心配して、リツが訊ねる。


「いいや、なんでもない」


 ぼくは首を横に振った。渡されたデータにムイの名前がないと知って落ちこんだなど、言えるはずもなかった。


「送ってもらったスキャン結果を調べる限り、島にいる転生者たちに生前の繋がりはなさそうだな」

「ええ。肉体が死に、データ化された魂の存在となったあと、同じ目的のために集まったという感じがするわね」

「目的とは、サーバーの破壊のことか」

「技術保全機構の人間としては看過できない行為よね。殺人よりはよっぽどましだけれど」


 リツが言っているのは、あの黒服の集団のことだった。何食わぬ顔で、ためらいもなく人間を撃ち殺す悪魔。人間を傷つけないと言って武器をとろうとしなかった白服の者たちとは対照的な存在だった。むろんその白服もサーバーを破壊して回る危険な存在には変わりないだろうが、新次元機工社のビルでのできごとだけを切り取ると、どうも彼らには人間と敵対する意思がないように思われた。


「気をつけてね、コウ」


 リツはそう言ってぼくの隣に座った。


「あなたはあの島にいる転生者たちは人間の敵ではないと思っているようだけど、それでも転生者であることには変わりがない。危険な任務だということを忘れないで」

「危険じゃない任務なんて、ぼくらには用意されないよ」


 それを聴いていたリツは、深い溜め息をついて首を左右に振った。


「あなたは死が怖くないの?」

「戦場に出る人間は、いつ死んでもいいと思って生きなければならない」

「強いのね。私は……死が怖い」


 耳元の髪をかき上げながら答える彼女の顔には寂しさの影が落とされたが、瞳はなぜか物欲しげに揺れていた。これもまた見覚えのある顔だ。ナイジェリアでも、彼女はその裏腹な表情とともに、多くの人間が死にゆくさまを見つめていた。次は自分の番かもしれないという恐怖と、早く自分の番が回ってこないだろうかという願望。それらがない交ぜになって彼女の表情に浮き出ていた。そうした不安定な精神状態は地獄のような戦場ではよく見られるものだったが、彼女の場合はとりわけ死に対する憧れというものが強すぎるように思われた。彼女自身の出す指示に従って、ぼくら戦闘員が多くの人間を撃ち殺してゆく。その光景に彼女はきっと耐えられなかったのだろう。だから彼女は死を強く望んだ。きっと彼女にとって、死とは魂と罪の浄化なのだ。


 そしていまも彼女は同じ思いを抱いているらしい。ぼくはそのことを、彼女の表情から感じ取るのだった。


「もしも……」リツは言った。「もしもあなたが死にそうになったときは、私を呼んで。一緒に死んであげるから」

「馬鹿なことを言うんじゃない」


 ぼくは立ち上がり、窓のそばへと向かった。丸窓の向こうには目的地である猿島が暗闇のなかにひっそりと佇んでおり、その光景は、迫害された異端の教徒たちが逃げ延びた静かの土地を彷彿とさせた。


「島が見えてきた」ぼくはリツのほうを振り返った。「準備を始めよう」


 望む答えをぼくから聞きそびれたのだろう。彼女は一寸、恨めしそうな目をしたが、すぐに普段の穏やかな眼差しを取り戻して、ゆっくりと立ち上がった。


「自動操縦システムを調整してくるわ。このままでは船が島にぶつかってしまうから」


 そう言ってそばを通り過ぎてゆく彼女の首筋から、ナイジェリアで嗅いだのと同じ、香水の甘い匂いが漂う。


 結局、あのころから二人はなにも進歩していないのだ。彼女はいまも相変わらず死に恋い焦がれているし、ぼくはそんな彼女に対して、見てみぬふりをしている。

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